無邪気な思い込み | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

今日、母と電話で話しているときに、今話題になっている中学生の殺人事件の話になった。
なんとも無残で痛ましい事件なのだが、どうも背景がはっきりしないこともあって、どう受け止めたもんかなあと私は思っていたのだが。

母はきわめて明快に「あの子の母親は自分が遊びたいだけなんじゃないの」と言い放った。
その後、昨今の子育て事情一般の話になったのだが、母が感じているのは、「最近の親(彼女が言うのはもっぱら母親のこと)は、自分が遊びたいもんだから、子どものことがほったらかしになっている。だから、子どもが悪さするのだ」というようなこと。

このあたりの感覚が、なんとも現在の実情とずれている感じがして、ちょっともぞもぞしてしまった。
しかし、それを言ってもたぶん理解しない。表面的には受け止めたように見えても、根本のところでは納得しないから、また違う事案が起きた時にはやっぱり同じことを言う。

少し前に、曾野綾子さんのエッセイが炎上したときも(今ももしかしたらまだ燃えてるか?)、曾野さんの反論を読んで「ああ、これはだめだ」と思ったものだ。
差別じゃない、区別だ、と言いながら、最終的には「これは私固有の偏りなのだから、これでいいのだ」と開き直る。差別はよくないことですよ、というのは、あくまでも建前に過ぎないのだ。

私の母は、曾野さんとほぼ同じ年、つまり同年代なのだが、時々驚くほど曾野さんそっくりなことを言うときがある。もしかして、この世代に共通する認識なのかと思うくらいに。


子育てに話を戻すと、私の母は、子どもが問題を起こすのは、母親が自分の遊びにばかり気を取られているからだ、と思っている。
「近ごろの母親は自分が遊びたいのが先に立つから。子育ては自分を捨てなくちゃいけないってことがわかってない」という。

確かに一昔前は、女は子どもを生んだらもう自分の人生は後回し、下手したら終了させるものだとされていた。だから、母親の癖に自分の身を飾ることにうつつを抜かしたり、自分の人生がどうとかいうなんて、とんでもないことだと思われていた。たぶん、母自身もそんなふうにして生きてきたと自認しているのだと思う。
自分のことは全部後回しにして、子どものためにすべてを犠牲にすることだけが、正しい母親の在り方だとされていた時代があって、でもそれではあまりにも生きにくいでしょ、ということで、だんだん、母親だって自分の人生を考えてもいいじゃないかというふうに変わってきたはずだ。
(そもそも女だけが子どもを育てることで自分の人生を終了させなくちゃいけないという通念自体がどうよ、と思うけどね。そこに「男=夫=父」の存在がまったくない)

女が家にいないという状態を、すべて「自分のことばかり考えて遊びほうけてる」という状態に結びつけてしまう感覚が、なんだかなーと思ったのだ。
いや、遊んでるわけじゃないですよ、仕事してたり、社会的な活動してたりするんですよ、と私は思うのだが、なんかそのあたりはもう通じない気がしてる。
いや、もっと言えば、遊んでて何が悪いんだ?とも思う。だいたい、「遊び」って何を指して言ってるのかなと思う。家事育児以外のことは全部「遊び」になっちゃうのかなあ。

そういうことって、改めて定義することなしにおしゃべりしてしまうから、一つの社会現象について話してても、なんか立脚点が違うなと思う。
最近になってようやく認知されだした、たとえば「発達障害」のことにしても、なんか母には通じない。
世代的な認知のずれって、やっぱりあるよなあ、と思ってしまった出来事だった。