居場所の作り方 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

昨日は、ストリートフェスティバル実行委員会の、募集要項発送作業をしてきた。
ストフェス実行委員会に入れてもらってはや1年が過ぎたんだな。
去年の春に説明会に行って、まったく要領を得ないままなんとなく会議に顔を出し、よくわからないまま話を聞いて、そしてストフェス当日を迎え。
当日はいろんなことをしている間に終わってしまったんだったなあ。

そんなふうに去年のことを思い返してみると、私がどうやってあの集団の中で居場所を作っていったかがうっすら見えてくる。
才能や人柄で、一瞬にして居場所を作れるタイプの人もいるけど、私はそうじゃないので、とにかく地道に「そこにいる」という方法をとっているようだ。

初対面の人たちの中にいきなり入っていって自分を出せるほど、自分に自信があるわけじゃない。むしろ、ビクビクと回りを伺っている方だ。
だから、最初はとにかく「その場にいる」。何も発言できなくても、何も行動できなくてもいい。とにかくそこにいる。そのことを少しずつ積み上げていくことで、「あ、この人はいつもいるね」とまず存在を認知してもらう。そこから、ちょっとずつ発言をしてみて、反応を見る。
こういうことは言っても大丈夫か。こういう発言は受け入れられるかどうか。
他の人たちの発言内容や雰囲気もちゃんと観察する。
そうすると、自分の中にあるいろんな意見や気持ちや感情のうちの、どれがそこで受け入れられるか、どういうキャラクターなら受容されるかがちょっとずつわかってくる。

それはつまり「この人はこういう人だ」と周囲に認識してもらう、ということなんだけど。
素の自分を出しても大丈夫なのかどうかは、きちんと判断しないとひどい目にあうこともあるので、このあたりの見極めは慎重にしなくてはならないし、あまりに狭い範囲でキャラが確定してしまうと、のちのち自分が苦しくなることもあるので要注意である。


今までの人生を振り返ってみると、どうやら私はこんなふうにして自分の居場所(安心してそこにいられる場所)を作ってきたようだ。
ようだ、ってまるで他人事みたいな言い方なんだけど、でもこれ、意識的にやってたわけじゃないからねえ。今、振り返って総括してみるとどうもそのようだということがわかってきたのだ。


なんにしても、私は「そこにいる」ということにかなり重点を置いているようで、目の前にいない人のことは、どうしても遠景になってしまいがちである。

これって、家庭内でも同じことなんだよね。
いつもそこにいる人とは、善きにつけ悪しきにつけ何かしらの関係性を持つことはできるんだけど、いない人とは交流ができないので、人間関係を形成するのがとても難しい。

よく世間では、既婚男性が、家庭に自分の居場所がないと嘆いている。金だけがわずかなつながりであると。
かつて「亭主元気で留守がいい」という言葉が流行った。元はCMだったんだっけ?
「家族のために一生懸命働いてくれる夫になんてひどいことを言うんでしょう」と怒る人もいたけど、そもそもなんで「留守がいい」って思われるのか、っていう考察が欠けてると思う。
良好な人間関係を築きそこねたから、いないほうがマシって思われちゃうっていうことはあると思うんだ。

一般的に、男性が結婚するのは「身を固める」と呼ばれ、その男性が自分の身の回りの世話をしてもらうために嫁をもらう、と思われてる。
ツイッターで見かけた話では、ある年配の女性が、自分の息子が一人暮らしをしていて、その不便さを嘆いていると話したところ、相手の女性が「家政婦でもやとうしかないわね」と答えたという事例があったらしい。まあ、よく聞く話ではある。
男性が一人暮らしをしていると、一定の年齢以上の人たちは、その不便さを案じる。つまり男は自分の世話をすることができない、家事能力がないのが当たり前と思われているのだ。だから、そういうことをしてくれる人=嫁をもらわねばならない、となる。嫁がもらえないなら仕方ない、金を出して家政婦を雇うしかない、と。要するに嫁とは無給の家政婦と同等の位置づけなのだ。

そんな感覚で結婚したなら、そりゃあ、妻のことなんてなんにも考える必要はないし、家にいる必要もない。精神的にも身体的にも「そこ(家庭)」にいる必要なんてないのだ。
正式に届けは出してあるし、世間や親戚への披露もした。となればそこにはもう完成された「家庭」がちゃんと出来上がっているはずだ。自分がなにかコミットする必要はどこにもない。
自分は今までどおり仕事をして、それで得たお金の一部は家庭の運営に回してもいい。でも自分は何一つ変わる必要もないし、変える必要もない。

ここまで明確に言語化して認識している人はめったにいないだろうが、無意識の領域ではこんなふうに感じている男性はけっこう多いんじゃないかなあ。
だから、家にいない。
いない人に居場所がないのは当然のことだと私は思う。

夫と人間関係を築いていきたい妻にしてみれば、形式的には存在していても、なんらコミットしてこない夫なんて、いったいなんのために結婚してるんだ、と懐疑的になるのも無理はない。
そして、妻と人間関係を築かなくてはいけないとは露ほども思っていない夫にしてみれば、なぜ妻がそこまで関係性を追求してくるのか理解できない。

この永遠のすれ違い。゚(T^T)゚。

親子の間にも、このすれ違いは存在することがある。
難しいのは、物理的にはそばにいるのに、心ここにあらず、とか、上っ面しか見ていない親だと、「いてもいない」ことになってしまうってこと。
夫婦や親子といった、濃い人間関係の場合は、「そこにいること」の定義が複雑になってしまうようだ。


そういう複雑な人間関係ではなくて、もうちょっとゆるいつながりの場合(趣味の集まりとかがそうかな)、まずは「そこにいること」ってけっこう重要だと思う。

書いてて、「今更なんでそんな当たり前のことを、とくとくと語っているんだろう?」と疑問が湧いてきたけど(笑)、少なくとも私は、じわっと「いつもいる」ことで自分の居場所を確保していくしか、方法を持たないんだなと再認識したので、こんなふうに延々と語っているわけだ。

私は会社勤めをしてこなかったので、「職場の人間関係」というものを知らない。
ちらっとそれらしき経験もないわけではないが、居場所を確保するという感覚もないまま過ごしてきてしまった。
もっとも長い時間を過ごしているのは「家庭」「結婚生活」であり、長い間そこにしか自分の居場所がなかった。そしてそのことにすら気づいていなかった。
なんだか毎日うすら寂しいなとは思っていたが、一人で過ごすことが苦ではないし、二度目の結婚生活はけっこう快適だったので、居場所について考えを巡らすこともなく生きてきた。

それが、50を越えてから、なんだかんだといろんなことに手を出し始めた。
そしたら俄然「居場所」「居心地」について考えざるを得なくなってしまったのである。
居心地のいい場所の作り方や、「私はここにいてもいいんだ、と思える場所の作り方」なんてことをつらつらと考えるようになった。

そう、私は常に、「私はここにいてもいいんだろうか?」と自問せずにはいられない。
「お呼びでない?」ってこともよくあるし、「いてもいなくても関係ないんだな」と思い知らされることもある。そもそもその集団のメンバーに受け入れられてないよな、と思ってしまうこともあるので、「そこにいてもいいかどうか」「それなりに自由に発言してもいいものかどうか」を見極めることが必須なのである。
で、最近は、「どうやらここにはいてもいいらしい」と思える場所が増えてきたので、なんだか人生が明るく見えてきた気がしているのである。
たぶん、今までの人生の中でいちばん、居場所がたくさんある時期だと思う。
会うのが楽しみだと思える人、おしゃべりするのが楽しい、嬉しいと思える人が増えてきて、そういうのって「幸せ」っていうんじゃないかなと思う。
大器晩成、なのかもな(意味が違うww)にひひ