「わかりあえないこと」を認めることから始める | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

かつて、田舎の濃密な人間関係を嫌って都会に出た人たちがいました。時代もあったんでしょうけども、そうやって都会に出た人たちは、隣近所や町内などの付き合いには消極的な対応で過ごしてきました。

そのことが、人間関係の薄さ、人情の薄さにつながって危惧されるわけですね。
アパートの隣に誰が住んでいるか分からない、「同じ町内」という意識がほとんどないから、誰かが困っていても、時には死んでいたとしても、まったく関心を持たない、という状態が当たり前のようになりました。
そのことに危機感を持つ人たちもいて、濃い人間関係を作ろうという風潮もちらほら出てきているようにも見えます。

でもね。
やっぱり、雑多な人間が寄り集まった所での人間関係は煩わしいものです。

「田舎」の人間関係が濃いのは、ずっとそこに住んでいる人たちがいるからです。代替わりしながら、ずっと同じ一族たちが集落を形成している。
そうすると、過去が蓄積します。過去というのは記憶ですから、いついつにどこそこの誰それがこんなことをした、こんなことを言った、という情報がずっと共有され継承されていきます。
そうすると、家同士の力関係が固定してくるんですね。反目しあう家、協調する家、などが必ず出てきます。「過去の因縁」というのはそういうもので、どうしても感情はそれに影響を受けます。それが「しがらみ」ってやつです。

新興住宅地ならそういうことはないかといえば、決してそんなことはなくて、それはそれで、新たなしがらみや因縁がこれから生まれていくというだけのこと。
私が住んでいるところも、今まさにそうやって因縁だの、しがらみだの、わだかまりだのが形成されていく途上にあります。

きっかけは、ほんの些細なことだったりします。
でも、その些細なことというのが、実はとんでもなく大きなことなんですよね。
価値観の相違、見解の相違、そういったものが、それを発信する個人の資質によって、大きなきしみになることもしばしば。
誰もが中立で冷静な判断ができるわけではないのです。だからもめる。
「あそこんちは、前々からそうだった。あの時も、この時も」みたいな話があちこちに転がっている。
それが表面化したり、重大化しない間はなんとか平穏が保たれますが、いざ何か問題が起きると、情報は錯綜するし、話はねじれるし、感情はこじれるしで、収拾がつかなくなる。
最悪の事態が起きてから、「こうすればよかった」とか「こんなことになるとは思わなかった」と後悔することになるのは、日々世の中のできごとを見ていると、とてもよくあることだと思います。

殺人だの、自殺だの、虐待だのの事件がメディアをにぎわすとき、そのごく近くにいた人たちはたいがい、口をそろえて「思ってもみなかった」といいます。
「そんな人には見えなかった」とか、「こんなふうになるとは思わなかった」と、まるで決まり文句であるかのように、皆が言うのです。

対岸から眺めれば、「どうしてもっと早くに手を打たなかったのだろう」とか「もっと気をつければよかったのだ」なんて、いくらでも言えるものです。
でも、実際に自分の身の回りに、類似した事案、あるいはその萌芽が眠っているとは誰も思わない。思いたくない、ということもあるし、「まさか」とたかをくくる気持ちもあるからです。
まれに、「もしかしたら」と危惧を抱いたとしても、その思いが共有されることは少ないし、その危惧が思いすごしであったり、勝手な思い込みであるという可能性も捨てきれない。
だからみんな、「とりあえず様子を見よう」と思うんですね。

地域にしても、学校にしても、職場にしても、みなそうです。
誰もが、まさか自分のところでそんな新聞沙汰になるような事件が起こるとは思いません。
それは、「何かあったら、話せばわかる」と思っているからなんじゃないでしょうか。

話してわかる、分かり合える場合も、ないわけじゃない。価値観のすり合わせがうまくいったり、受容する力をお互いに持っていたり、許容する力があったりすれば、対立することなく、第三の道を見つけることもできるでしょう。
でも、そういう力を持っている人ばかりではないのが現実。
知識が足りなかったり、知識を軽視したりする人には、そういう方面からのアプローチはうまくいかないことが多いですし、教条主義の人に柔軟性を求めるのもかなり困難なことです。
相手の価値観がどうしても受け入れがたい、という場合だってある。
「私は正しい。相手が間違っている」というふうにしか考えられない人だっています。
「これがふつう。これが常識である」という思いが強い人は、同じように思わない人のことを許せないものですし、「他人の考えに左右されたくない」という思いが強い人はそもそも他人の説得などに耳を貸したりしないでしょう。

そうなると、「わからないのは相手が悪い」という結論に飛びつきたくなる。
「まったくあの家の人たちは困ったものだ」というレッテルを貼りあうことになり、事あるごとに意見が対立して混乱の度合いが深まってしまうんですね。

大切な人を、不幸な事件や事故でなくした人は、「もう二度とこんなことが起こらないようにしてほしい」と願います。
でも、毎日のように不幸な事件や事故が起こり続けています。
「わかりあえるはずなのに」と思うから、行き違いや恨みや憎しみが絶えないんじゃないでしょうかね。

私も、日々、いろんな人に大量の言葉を発しています。自分の思い、考えを伝えている。
しゃべるっていうのはそういうことです。そしてしゃべっている瞬間は、その内容が相手に100%伝わっているものだと無意識に思い込んでいます。
だから、相手が自分の思ったように受け止めていないことがわかった瞬間、カッと頭に血が上るわけですね。「なんでわからないんだ」と。「そんなふうには言ってないじゃないか」と思うわけです。
でもこれは私が間違っているんです。自分が言ったことが、そのまんま相手に伝わっている、さらには理解されている、と思うほうが間違っているのです。
人は、その人なりの理解力で、その人なりのコンテキスト(文脈)で、その人なりの価値観で相手の話を受け止めます。その時点ですでに減殺されているんですね。
伝言ゲームで、徐々に内容が変化していくのはそのためです。

だから、又聞きの話は気をつけなくてはいけないんですね。
相手がしゃべってる時点である程度の脚色がされてしまっている。同じ言葉でもニュアンスが変わっている場合がほとんどなのです。だってそこにしゃべっている人の価値観が付与されているから。その分を割り引いて聞かなくてはなりません。
それを、そのまんま受け取ってしまって、さらによそに流したりするから、どんどん話が変わっていってしまうわけで。
直接聞いたときだって、相手の真意を完全に受け取っているとは限らないんですから、又聞きにおいては言うまでもありません。

「田舎」の濃密な人間関係の中では、こういう作業を四六時中行わなくてはなりません。
町内行事のあれこれ、子どもが関係するあれこれ、学校との関わり(その中には先生との関わりもあります)、そのすべてにおいて、入ってくる情報がどういった色合いを持っているか、具体的には誰が言ったことなのか、その誰かはどういった人間関係を持っているかということを判断しなくてはならないのです。
こういうのを「めんどくせえ」と放り出してしまうと、あとに残るのはしつこい悪評だけ。何かにつけて「あの家の人はね」と色を付けて評価されてしまうわけです。

「都会」で人間関係が希薄になるのは、みんなこのめんどくささから逃れたいからです。
そのために、他人とは深く関わらないようにする。どこかの誰かが困っていても、どこかの子どもが虐待されていても、見ないようにする、聞かないようにする。知ってしまって深く関わると、自分も潰れてしまうから。

虐待に関することがいちばん難しいと思うんですよね。
老人、子ども、さらにはDV。こういうのって、新聞やテレビなどで事件化されたものを見れば輪郭がはっきりして見えますけど、実際に自分の身の回りにあったとしたら、その境目を見極めるのってすごく難しいと思うんですよ。
疑いがあったら通報してね、って軽く言われてますけど、その「疑い」はいったいどこに境界線を引けばいいんでしょうね。
モラハラや、子どもに対するさまざまな虐待は、他人が判断するのはとても難しいです。
片方で「なんでもかんでも親の責任である」とする価値観も強くあって、親がこうだ、と言ってしまうと、他人が手を出すのはほんとに難しい。
特に、「昔風のしつけ」をしていると自負しているタイプの人は、どう見ても子どもを危険にさらしているにも関わらず「これが教育である」と信じていますから、その子が死ぬまでわからない。うまくサバイバルして生き延びたとしても、その子の内面がどうなっているのかまではわからないですよね。でも、そういう人は内面はあまり気にしないのです。


話せばわかる、というのは、幻想だ、と思います。
分かり合えるときもある、という程度。基本的には人は分かり合えないのだと思います。
私がこんなふうに長々と文章を書いたって、それが100%伝わるとは思えません。
それは、私の言葉が足りないせいもあるし、言い回しがまずいせいもあるでしょう。
それ以外にも、読む人の受け止め方の違いもあると思うんですよ。
だから私は言葉をたくさん費やそうとするんです。自分ではわかっていることでも、相手にその通りに伝わるとは思えないので、事細かに言葉を足していく。
けっこうね、この「省略」のせいで誤解が生じることって多いんですよ。
どれだけ足しても、絶対に完璧ということはないので、必ず不足します。その不足が誤解を生むのです。

どれだけ語ってもすべて語りつくすことはできません。
そうして、毎日、なにかしら誤解し、誤解されて生きているわけですよ。


しんどいことですなあ……。