生々流転 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

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思い出の地なんて、基本的に残ってたことがない。
わたしの記憶のいちばん最初にある、父方の祖母と一緒に住んでいた家はもうとっくに取り壊されてなくなっているし、子ども時代のいろんな思い出が詰まった母方の祖父母の家は、味気ない駐車場になってしまった。
大学時代に住んでいたアパートや貸家はどうなったかなあ。
最後に住んでいたアパートはまだあるってこないだ聞いたけど、築何十年っていう木造アパートって怖いよね(笑)

住んでいた家がなくなるくらいだから、お店なんて、まるで一瞬の幻のように消えてしまう。
ちょっと前にシナリオを書くときに使ったんだけど、高校時代によく立ち寄ったお店があった。
学生相手の、何でも屋さん。焼きそばやらおでんやら、ファンタやチェリオやら、そんなものを食べてだべっていた店だった。
その店も、もうずっとずっと前に、コンビニに変わってしまった。場所もちょっと変わったんじゃなかったかなあ。

思い出の地っていうのは、「思い出」っていうくらいだから、もう自分の記憶の中だけにしか存在しないんだろうと思う。
子ども時代の一時期住んでいた奈良のあのあたりは、もう全然知らないところみたいに変わってしまった。造成途中のそっけない風景や、果物の断面のように突然濃密な気配を漂わせる森の一部や、古い古い昔の時代を思い出させるひなびた光景は、もうどこにもない。
夏の熱い日差しで暖められた黒い瓦の上に布団を干してその上で寝転がった、あの祖母の家はもうどこにもない。
みんな、みんななくなっていく。
でもそれは、言い方を変えれば、姿が変わっただけだとも言える。
目に見える形状が変わっただけなのだ。

万物は流転する。
生々流転。すべてのものは流れゆき、変化する。

現に、今住んでいる家のまわりだって、この1,2年で驚くほど変化した。
懐かしいような空き地が広がっていたと思ったら、あっという間に家が立てこんで、どこにでもあるような住宅街になった。
ちょっと前の光景を知っている人なら、逆に道に迷ってしまうくらいの変貌ぶり。
引っ越してきてすぐに周囲の写真を撮っておいたのだが、それは、こういう日が来るのを予測しての事だった。

人の世で、変わらないものなどなにもない。
人の心も変わる。環境も変わる。
太古の昔からそこにあったであろう山の姿ですら、時として変容するのだ。

変わらないことに安住しちゃいかんよな、と思う。
「変わっていくこと」は不安で落ち着かないけれども、人はみな、うたかたの舟に乗ったあぶくのようなものなのだ。
前のめりになって、その変わりように立ち向かっていくしか、他に道はあるまいて。