いまさらの懺悔 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

やたらに反省する人は実はプライドが高いんだそうですな。
そういう記事を読んでドキッとしました。
人に指摘される前に、自分から反省して見せて批判をかわそうという心理らしい。
当たってるなあ(笑)

それと似たような心理で、「今更取り返しのつかないことを懺悔する」というのもあるんじゃないでしょうか。
少なくとも、私にはあります。

ネットをさまよっていると頻繁に目にするのはやはり、子育て、親子関連の話題。
今日なんて、「人生の9割は親で決まる」なんていう、ある意味絶望的な言葉を見てしまいました。
これ、親が素敵で素晴らしい人なら大変よかったですね、で終わる話ですけど、たぶん世の中そういう親の方が少ないのではなかろうかと。
あるいは、子どもが自分を肯定するために必死でそう言い張っているとかね。

世の中には、「まっとうな親に育てられたしあわせな人」や「まあなんとか許容範囲にいる親に育てられて、清濁併せ呑むしかない人」と、「ちょっと許容範囲を越えてしまって、中途半端に苦しんでいる人」や「とんでもない毒親に育てられて、七転八倒して生きている人」の二種類に分かれるような気がします。
そして、とても残念なことに、前者と後者の間には、埋めがたい、越えられない溝がある。
前者は、後者が理解できません。「育ててくれた親のことを悪く言うなんて信じられない」って言うんですね。あるいはものすごく無邪気に「子どもを愛さない親なんていないよ」と断言する。
後者も前者を理解できない。いや、理想としてはあるだろうけど、ほんとにそんなことがあるのかとどうしても疑ってしまう。

こういうことって、外から見てわかることではないので、誰がどっちかはすぐにはわかりません。
だから、子育てや親子問題の話題になると混乱してしまうのです。
後者が苦しみを訴えると、前者が批判する。前者がしあわせをぶちあげると後者が傷つく。

そもそも、お互いに使っている言葉や理念、概念の定義が全然違うんだと思います。だから話が噛み合わない。
「子どもが可愛かったら虐待なんかするはずない」っていうけど、子どもをちゃんと育てなくてはいけないという枷があるからこそ虐待行動に走ってしまうことがある、ということを、どれくらいの人が理解できるでしょうね。たぶん、前者には理解不能だと思います。


いやいや、そんな他人事のような話じゃないのでした。
私の、いまさらの懺悔というのは、まさにこの「子育て」のこと。
一人目が20代半ばになり、二人目も二分の一成人になった今でさえ、私は自分が子どもを産んだことを後悔しています。
「人生の9割は親で決まる」ということは、逆の言い方をすれば「子どもの人生は親で9割決まる」ということになります。
ということは、親がクズなら子どももクズになる、ということになりますよね。
私は、自分の子どもたちを見てため息をつくたびに、「ああ、だから私は子どもを持つべきではなかったのだ」と深い後悔に襲われるのです。
そもそも、私自身が人間としてどうなのよ、と常日頃思っているようなレベルの人間で、ほんとうなら子育て、つまり「次世代の人間を育てる」などという大それたことができるような者ではないのです。
それなのに、単に結婚生活を成立させ、自分の立ち位置を確保するためだけに子どもを産んでしまった。もちろんそれが可能だったという状況は感謝すべきですが、可能だったからといってそれを実行してもいいとは限らない。
仮に私が子どもを産めない体質だったとしたら。
私はもっと真剣に自分の人生について考えたかもしれませんし、結婚というものをもっとまじめにとらえたかもしれません。
しかし、幸か不幸か、私は通常妊娠が可能な人間でした。避妊しなければ(あるいは避妊しようとしても)あっさり妊娠し、母子ともに健康で出産できてしまう状態でした。

不妊治療で苦労されている方からみれば、失敬千万な存在だと思います。
それでも、私は自分から望んで子どもがほしいと思ったことがなかった。ずっと子どもなんて嫌いだしいらないと思ってきました。(本音を言えば今でもそう思ってる)
でも、結婚生活を成立させるためには、自分が家庭の中で安心して生きていくためには、子どもの存在は不可欠でした。「母」という立場があってこそ、大きな顔して主婦をやっていける、と私は思っていたのです。

そんな理由で子どもを持ちました。出産も辛かったし、育児も辛かった。
よく出産したタレントさんが、目をキラキラさせて子育てのしあわせっぷりを語りますが、どこのファンタジーだよ、と思ってしまいます。
肉体的な辛さもさることながら、「親の責任」という重圧こそが辛さの本質でした。
どんな理由であれ、一人の人間を産み落とした以上、まともに育てる責任がある。そこは外したくなかったのです。プライド高いですから(笑)
ふたりとも父親はあまり当てにならなかったので、とにかく一人で必死に育て、教育しました。

でもねえ。
そもそも私自身が出来損ないの人間なんですよ。そんな者にまともな子育てができるでしょうか。
子どものダメっぷりに腹をたてるたびに、「いやいや、これは育てた私の失敗なのだ」と深く落ち込むことの繰り返し。

子どもは別人格。親と同一視してはいけない。
そんなことをここに書いたこともあります。
それは、切なる願いだったんですよね。そうであってほしい。子どものダメっぷりは子ども自身のせいであってほしい、と。私のせいじゃないと思いたかった。
でも、どうなんでしょう。親の影響はどれくらいあるものなんでしょうね。
私がダメ人間なのだとしたら、私を育てた親は、やっぱり子育てに失敗してるということになるし。それとも、親は関係なくて私自身の問題? だとしたら、子どもがダメなのは子ども自身の問題ということになりますが。

私の親も、あまり子どもが好きではなかったようです。
父はとにかく無関心ですし、母もおそらく、単に社会通念に従って子どもを産んで育てただけで、本来はさほど子ども好きではなかったのではないかと思われるフシがあります。

因果はめぐるってやつなんでしょうかねえ。

たまに思います。もし過去に戻れるならどうするか。
1回めの結婚を決めたころに戻って、必死で説得しますね。ここで結婚してはいけないって。
あのころ、ちょっと生活に行き詰っていて、逃げ道として結婚を選んでしまったので、そのあたりをこんこんと説教したいです。
まじめに働けって。あのころの自分に心からそう言いたい。



でもね。
いまさら、なんですよ。
時は戻らない。
毎日毎日、後悔の種を目の前につきつけられて、ボロボロであります。