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元恋人と復縁したことある? ブログネタ:元恋人と復縁したことある? 参加中
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一度はさよならを言いながらも、どうしても未練が残って再び連絡を取り、前と同じように会ってみたものの、どうにも違和感が否めない。結局フェードアウトしていくんだけど、そこはそれ、一度別れただけになんとなくうやむやのうちに、連絡を取らなくなって、いつの間にか終了。

そういうのも復縁というなら、したことある、と言えるかなあ。
別れの理由が価値観の相違だとしたら、おそらく何度やり直してもだめだと思うんだ。
でも、重視する価値観をどこに置くかを変えたら、やり直せることもあるかもしれない。

浮気性の男と、その浮気が嫌で別れたとする。
でも、浮気できるくらいなんだから、その男には、男としての魅力がたっぷりあるわけで、そこに価値を置く限りは、何度でも浮気されて嫌な思いをすることになる。
自分だってその男の魅力に惹かれてくっついてるんだから、他の女だって惹かれるだろうし、浮気症の人間は寄ってくる異性を拒絶することはめったにない。
でも、ここで重視する価値を変えてみる。その男のバックグラウンドや、経済力や、それに連なる恩恵、浮気症の男に連れ添っているというイメージなんかを最優先して考えたら、これはやり直しする価値十分ありなんじゃないかな。
相手の魅力を自分の魅力に活用する。そういう戦略を立てられる女だったら、やり直しもできると思う。
えーと、特定の誰かを想定して言ってるわけじゃありません(笑)。

                  演劇

昨日観てきた「愛のおわり」という芝居が壮絶だった。
フランスの人が書いて演出した作品で、それを日本語に訳す時にあの平田オリザさんが監修についた。
たぶんそのせいだと思う。芝居の根幹を為すものはあくまでもフランス的でありながら、使われている言葉が非常に日本的、もっというなら平田オリザ的であった。
その、溶け合わないのに、妙になめらかなセリフの数々は、途中からきちんと聞き取る必要性を失わせるほどだった。

芝居の構成はとてもシンプル。
出てくるのは男と女の二人だけ。どこかのスタジオあるいはレッスン場とおぼしき場所にやってくる。ほとんど素舞台で、最初女がどんどん歩みを進めて、上手、つまり観客から見て右手の前の方に立ち止まる。男は下手、つまり左手の奥に立ち止まる。
そしてやおら、男が話しはじめるのだ。何を。たぶん別れ話を。
そこからたっぷり1時間強、男だけがしゃべり続ける。
女はそれをただじっと聞いている。一切言葉を発しないし、ほとんど動かない。

聞いているこっちがうんざりするほどの長い間男が喋って、ようやく一段落ついたらしいと思われる時、突然舞台に子どもたちがやってくる。どうやらどこぞの合唱団が練習場所を間違えて入り込んだという設定らしく、とてつもない棒読みでそのことが告げられる。
そして彼らが「月の砂漠」を歌っている間に、男と女がその立ち位置を変える。
あたかも、攻守交代するかのように。

そして後半は、女の怒涛の反撃が始まる。これに約1時間。
最後通牒を女が突きつけて、暗転。

しめて2時間ちょっとの芝居だったんだが、こんなに疲れる舞台は初めてだった。
時間で言えばさほど長いわけじゃない。それなのに、家に戻ったら起きていられないほど疲れていた。
なにがそんなに疲れたかって、やっぱり他人の別れ話、修羅場に立ち会うことのしんどさだったんじゃなかろうか。
あの作品は、作・演出のパスカル・ランベール氏の個人的体験が色濃く反映しているんだそうだ。つまり、かつて彼が恋人と別れた際に経験したやりとりが元になっているということ。
そのことが、作品にどれだけ影響を及ぼしているのかはわからないけれども、それでもやっぱり、他人の別れ話に立ち会った、という感覚は強い。

先に、言葉が平田オリザ的と書いたが、そのことを翻訳した平野暁人さんは「冗長率」という言葉で表現していた。冗長率というのは、会話の中にどれだけ意味のない言葉が含まれているかということを表す。
普段の日常会話では、言わなくてもいい、どうでもいい言葉がたくさん発せられている。
同じ言葉を繰り返したり、「えっと、えっと」「あー、その」「ほらあの」などの言葉ともいえない合いの手的な音がたくさん交じる。
舞台上の男優が発する言葉の数々は、はじめの方こそ、なにやら意味ありげな言葉なのだが、次第にその意味をなくしていく。話はあっちこっちに飛ぶし、思いつきで意味不明なことを言い出したり、感情が激してしまって、いろんな罵倒が飛び出したりする。
私は、前半30分くらいは、一生懸命男のセリフを聞き取ろうとしていた。
芝居である以上、そこにはなんらかの情報が含まれていると思ったからだ。
どうやら二人は別れ話をしているようだが、その別れの原因はなんなのか、男はそのことについてどう思っているのか、女に対する気持ちはどうなのか。
そういったことがわかるのではないかと思ったのだ。

しかし、私は途中で聞くのをやめた。百万の言葉を費やしながら男は何一つとして実のあることを語っていなかったからだ。重要な言葉は、聞き耳を立てなくてもふいに耳に飛び込んでくる。
私は男を見るのをやめて、女の方をしばらく見ていたが、やがてそれもやめてしまった。
言い返すでもなく、表情を変えるでもなく、ただ彫像のようにそこに立っているだけだったから。

もちろんそれは演出だ。そういうふうに作ってあるのだ。
それでも私は、片方が一方的にまくしたてる、というあり方に違和感を持たずにはいられなかった。
別れ話をしてるんでしょ? ということは、別れたいんだよね、どちらかが。
男の言い分を聞く限りではどうやら男の方から言い出した別れのようである。
だったら、黙って立ち去ればいいのに。
なぜ、あんなに延々と何かを訴えなくてはいけないのだろう。
やり直すつもりはない、、もう愛してない、と繰り返し繰り返し、言い方を変えて何度も言っていた。それは次第に「やり直したい、まだ愛している」と言っているようにも聞こえてきた。
でも、自分は譲歩したくない。相手に折れてほしい。だからあんなに未練タラタラで、いつまでもくどくどと演説をぶっているんだろうか。

観客にフラストレーションをためさせるという目的でやっていたとしたら大成功だと思った。
私はものすごくイライラしたし、いっそ舞台の上に駆け上がってあの男をぶちのめしてやりたいとすら思った(もちろんしませんよそんなことw)。
黙っている女にも、そういう演出だとわかってもなお、イライラした。なぜなにも反応しないのだ、と。

だから、奇妙な合唱のあと(それはほんとに奇妙な瞬間だった。あの異物感は何を狙っていたのだろう)、攻守交代して今度は女が喋り出した時には、心底ほっとした。ようやく反撃開始だ。どんどん言ってやれ。男が1時間かけて撒き散らした空虚な演説をぶち壊してくれ、と思った。

女のセリフは非常に具体性に富み、十分生々しく、とても情動的だった。
驚いたことに、女もまた、別れたくないと思っているようだった。
まあ最後には、愛が憎しみに反転する瞬間があって、ばっさり断ち切るのだけれど。

二人はどうやら同業者、しかも俳優のようだった。
だから別れ話が終わったあとも、一緒に仕事をしていく可能性を見せて芝居は終わる。

あの二人が、いったいなぜ別れようとしていたのか、それ以前にどこがよくてつきあっていたのか、そういうことはまったくわからなかった。
まあよくある話で、才気走った男が美辞麗句を操るさまに、女が尊敬の念を抱いて~、みたいなつきあいだったんじゃないかな。
男のセリフがいかにも、頭の切れる男がいいそうな、見てくれのいい、かっこうのいい言葉だったから。その実何も具体的なことを語らないという空虚な言葉。
あんな男でも最初はよく見えたんだろうなあ。わかるわかる。女は男を尊敬したい、という気持ちを持っているのよ。だから、いろんなことをよく知っていて、鋭い感覚とずば抜けた頭脳をもっているように見える男には弱いのだ。
でもなー。別れに際してあんだけくどくどしく言い訳したらあかんやろ、と思う。
いいと思っていた面が全部裏返って、浅ましくて尊大で自己中心的な面ばかりが出てきてしまう。

あのカップルに復縁はないなと思う。もしあるとしたら、女のほうが大きく価値基準を変えて、違う観点からあの男を評価したときだろう。たとえば、俳優の才能があって、くっついていたほうが有利だとか、プロデュースの才能がありそうだ、とか。
柔らかい感情の部分では、完全に見切りをつけたな、と感じさせる展開だった。


それにしても、だ。
私がなにより驚いたのは、別れに際してあそこまでお互いが徹底的に話をする(罵り合うともいう)ことを当然と作者が思っている、ということだった。
それは、平田オリザさんも、SPAC総監督の宮城さんも言っていたけれども、なにもそんなに長々と話すことはないじゃないか、と私も思う。
別れる前の喧嘩で、罵り合うことはあるかもしれないけれども、別れを決めた段階で相手にそれを告げる時、ああだこうだと自分を正当化するような語りをすることってあまりないんじゃないだろうか。
少なくとも1時間もしゃべり続けることはないと思うなあ。
しかも、片方がしゃべるだけではなく、もう片方も同じ強さで反論する。
この「反論する」(そしてそれを受け入れる)という態度こそが、もっとも異文化を感じた部分だった。
片方が一方的に罵ることは日本でもよくある。男が一方的に暴力をふるうとか、モラハラチックに責め立てるとか。あるいは女が一方的に糾弾するなんて光景もざらにある。
でも、双方が同じ高さでぶつかりあう、という状態は、ないんじゃないかなあ。

フランスと日本という異文化にも驚いたが、もうひとつ驚いたことがある。
私の後ろの席にはどうやら若い女性が数人座っていたようなのだが、舞台が終わったとき「涙が止まらない」と言っている声が聞こえてきたのだ。
非常に残念なことに、私には何一つ刺さってくるセリフがなかった。どこに感動したらいいのかもわからず、「やれやれ、あんな男、もっとさっさと捨てればいいのに。どこがいいのかしらね」なんて思っていたのに、後ろに座っていた彼女たちは、泣くほど刺さるものがあったらしいのだ。
私には、愛がわからないのかもしれない、とそのとき思った。
ここにも異文化があった。あの舞台を見て、愛を感じられる人と、なにも感じない私。

愛ってなんでしょうね。


芝居の中ではとんでもなく嫌味でいけ好かない男だった役者さんは、芝居が終わったらとてもさわやかな青年に戻っていた。夜叉に豹変する凄まじさを見せた女優さんは、とてもたおやかで美しい人だった。
作・演出のパスカル・ランベールさんの通訳をしていた平野さんは、白皙の美青年だった。
芝居はわけわかんなかったし、楽しみにしていた平田オリザさんが出席するアフタートークはあまり得るものはなかったが、まあ、イケメンを拝めたからよしとしよう、と思いながら帰ってきたのであった。
男は見てるだけのほうがいいね。