踏み出す勇気 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

今朝の毎日新聞の連載記事を読んで、考えさせられた。
「イマジン」というタイトルの連載で、今日の記事は第3部「えらぶ」の最終回だった。
「『捨てる』勇気 未来を変える」というリードがついている。

「選ぶ」というのは、その反面「捨てる」ということでもある。
ユーミンの歌の中にも、「選ばなかったから失うのだ」という一節がある。
何かを選ぶこと。職業や生き方という重要な局面において、どれかを選べば別のどれかは捨てなくてはならない。
現代は、そこで躊躇している人が増えている、というのが記事の内容である。

選択を誤ったなら修正すればいい、と平田オリザ氏は言う。成功率が30%でも踏み出そう、と説くテラモーターズの社長。

確かにそうだ、とは思う。
最近は「どれかを選べば当たる可能性のある選択問題」ですら、答えを選ばない子どもが増えているのだそうだ。なぜなら、「間違えたらいやだから」
選ばなければ、何か一つに決めなければ、少なくとも「失敗」や「間違い」を犯すことはない。
私も、外れたらお金がもったいないと思うから宝くじは買わない。買わなければ当たらないということもわかっているが、買って外れたらお金がもったいないじゃないか、ということの方が気になるのだ。

失敗を恐れるな、という。失敗を重ねることでしか成長できない、という。
確かにそうかもしれないが、ひとつ重要なことを見落としている。
日本では、基本的に、「一度失敗した人」や「一度間違えた人」を許容しない。
どれだけキレイゴトを並べても、みんな身を持って知っているのだ。失敗したら終わりだ、間違えたら終わりだ、と。
失敗や間違いを乗り越えて頑張れる人は、実はその時点で「選ばれた、すごい人」なのである。
凡百の人間は、失敗したら基本的にはそこで終わりなのである。だからこそ、失敗した人を受け入れたり励ましたりする物語が受けるのだ。

理想を語れば、どれだけ失敗しても、間違えても、それを受け止めてもらってやり直せる社会がいいに決まってる。
でも、実際には、テストの点が悪ければ親はキーキー怒るし(のび太のママのように)、授業中に変なことを言えばみんなに笑われて、ヘタしたら先生からもはじかれてしまう。
本当にそうなるかどうか、というよりも、「そうなるんじゃないか?」という想像が現実味を帯びているということが問題なのだ。


可もなく不可もなしで、な~んにもない普通の日々を送ることだけが、最重要課題になってしまって、ちょっとでも変わったことや、リスクのありそうなこと、負荷のきつそうなことには一切手を出そうとしない。それが個人の人生論ならまあ、仕方ないが、どういうわけか、そういう人ほど、他人のそれ(変わったこと、高リスクなこと、負荷のきつそうなこと)に対して懐疑的かつ否定的な態度をとりがちなのである。

そりゃ、平穏無事な生活は大切だし貴重だとは思う。中流を死守したいという気持ちもある。
でも、あまりにそれに固執するあまり、そこから外れることを異様なまでに恐怖するというところまで行ってしまうと、これまたいろいろ差支えが出てくるのである。

今までやったことのないことをやろうとする、というのは、とても怖いし不安なことだ。だってやったことないんだから、どうなっていくのか見当もつかない。
金銭的な損失を被ったらどうしようか、とか。健康を害したらどうしようか、とか。
もっと表面的なことで言えば、他人からなんか悪く言われないかしら、という心配もある。
「出る杭は打たれる」というが、ちょっと目立って頑張ってたりすると、必ず批判的なことをいう人が出てくるものなのだ。(私はそれはたぶんに僻みが言わせているものだと思っているが)
正論の衣をまとっての批判は堪えるし、もしかしたらほんとに間違っていたのかもしれないという不安は常につきまとう。最悪、ほんとに間違えていて、失敗してしまっている、ということだってありうるのだ。そうなったときの「ほらみろ、いわんこっちゃない」攻撃のキツさは、想像するだけでもゾッとする。


最近、ちょっとわからなくなっていることがある。
それは、「好きなこと、得意な分野だけがんばればいい」という意見があるということ。
先日テレビに出演していた東進ハイスクールの林先生は、「自分の好きな、得意な教科だけがんばればいい」とおっしゃっていた。
毎日新聞の記事にも、建築家の隈研吾さんが「自分の得意な土俵を作り、そこでだけ勝負すればいい、というような不真面目さがあってもいい」と提案しているとある。

う~ん。この考え方ってやっぱり「不真面目」なのかなあ。
学校では、「苦手なものをがんばりなさい」と教える。
世間的に見ても、好きな事だけしていると非難されがちだ。
自分が得意なこと、好きな事をやっていると称賛される場合と、非難される場合とあるみたいなんだな。たぶん、世間的に認められる(有名になるとか、たくさん稼ぐとか)ようになれば、好きなこと得意なことだけやっている、というのが「いいこと」とカウントされる。
でも、そうじゃないときは、ヘタしたら「苦手なものから逃げている」と悪いことのように言われてしまったりするのだ。

人に何を言われたっていいじゃないか、という意見もあろう。
それが、自分にとって縁もゆかりもない人なら、やり過ごすこともできようが、親兄弟、親戚友人など、密接なつながりを持つ人たちから言われたらどうだろう。
「そんな夢みたいなことばっかり言ってちゃだめだ」とか、「世の中そんなに甘くないぞ」とか、きっと愛情から出た言葉なんだろうけど、全力でつぶしにかかってくるのだ。もちろんそれが本人のためだと信じているからこその行動なのだが。
「好きなことばっかりやってちゃだめだ」という言葉の裏にはなにがあるのか。
もしかしたら、そこには僻みがあるんじゃないか。妬みがあるんじゃないか。
そんなことも思ってしまう。
そして、その心性は、「失敗した人を許さない」という心性とどこかつながっている気がする。

いくら好きなことだといっても、それを続けていく中では、嫌なこと、苦しいことは必ずある。でもそもそも「好きなこと」だから、その苦労を乗り越えていけるんじゃないだろうか。
だとしたら、基本方針として「好きなこと、得意なこと」で頑張るほうが、幸せな人生を送れるんじゃないかなあと思う。
たとえそれが、世間一般でいう「成功した人生」や「人が羨むような人生」じゃなかったとしても。

人と違うことをするというのは、とっても不安なことだ。
だから、ついつい、わかりやすい指標にすがってしまう。
学歴とか、社名とか、地位とか名誉とか、そういう、外側から見てわかりやすい指標。
「家族ゲーム」というドラマでは、父親がそういうわかりやすい目印に固執する人物として描かれていて、とにかくいい学校へ行け、そしていずれはいい会社に就職しろという人生観を持っていることになってる。当然の成り行きとして息子はそれに反発するわけだが、現実の世界では、あそこまでわかりやすく反発したり、壊れて行ったりはせず、もっと水面下に深く潜行していくことが多い。

幸せってどういう状態をいうんだろうなあ、といつも思う。
わかりやすい世間のものさしに従った人生だけが幸せじゃないと思うんだ。
結婚とか、子どものあるなしとか、収入の多寡とか、社会的地位のあるなし、とか、それらはあくまでもものさしの一つにすぎない。
そこから外れてしまっても、それがすぐさま不幸を意味するわけじゃないのだ。
人の幸せは他人がジャッジすることではない。たとえそれが我が子であったとしても、身内であったとしても、だ。そこが難しいところで、親はついついよかれと思って子どもの人生に侵入してしまいがちである。
でも、ほんとは、自分の幸せは自分で選んでいくことからしか見つけられないんだと思う。


さて、こんだけ勇ましいことを書いておいてなんなんだけど、それでもやっぱり私は失敗が怖い。失敗や、間違いの可能性があるなら、無回答で提出したいタイプだ。なにしろ、300円を惜しんで宝くじを買わない人間なのだから。
そうやって失敗を回避し続けてきたおかげで、致命的な過ちは犯さないで来られたけれども、そのかわり何のおもしろみもない人生になってしまった。
若い時にもっといろんなことにチャレンジしてみればよかった、と今になって思う。
それで、遅まきながら最近になってあれこれ手を出しているわけだ。
晩節を汚す可能性もなきにしもあらずだが、なあに、逃げ切りという手もないわけじゃない(笑)
若い時と違ってもう残り時間が目に見えている。もしかしたらロストタイムに入ってるかもしれない。だったらやっとけ、と。
「踏み出す勇気」「選ぶ勇気」とはちょっと違うのかもしれないけど、「好きな事で頑張る」ことを正々堂々と表に出していこうと思ってる。

「すきなことでがんばる」っていうのは、よさそうに思えるけど、これはこれでイバラの道だったりもするんだよなあ……。