人のためではなく | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

「人のためになることをしたい」というのはとても美しい志である。
世の中のために役立っていると実感すること、他人のために役立っていると実感できることは、大きな喜びをもたらす。

そういう美しい志に異を唱えるのはとても恐れ多いのであるが、最近の私は「人のために」と思うことが苦しい。
誰かのために、誰かのことを思って、行動すること。
そこに無償の思いがあればいいのだろうが、卑小な人間である私としては、どうしたってなにがしかの見返りを求めてしまう。
別に大仰な見返りじゃない。ちょっと感謝されること、「ありがとう」と思ってもらえること、そんな程度のことだ。

ところがこれが実はもっとも手に入れにくい見返りなのだよねえ。
夫のために自分を犠牲にして尽くしたり、子供のために自分を抑えたり、結婚生活なんてそんなことの繰り返しである。
これを、心底「夫のために」とか「子供のために」と思ってやってたら、到底耐えられない。
だってなんにも返ってなんかこないのだから。
「なんであたしばっかり、こんな早起きしてみんなのご飯作ったり洗濯しなくちゃならないのよ」と昼まで寝ている夫を横目に見ながら腸を煮えくりかえしていたり。
「ほんとはいろんなことをやりたいんだけど、子供のことを考えると無理だわねえ」と溜息をついたり。
家庭を継続していくために成すあらゆる行為を、「夫のため」「子供のため」「家族のため」だと思っていたら、アホらしくてやってられなくなる。
というか、やってられなくなった。
私がする家事は「やって当たり前」だと思われている。
夫が、たまに掃除機をかけてくれたり、洗濯物を取り込んでくれたり、玄関においたゴミを集積場まで運んでくれたり、子供のおむつをかえてくれたりしたら、私は「ありがとう」という。
同じ事を私がしたって、だれもいちいち「ありがとう」なんて言わない。
でも、給料日、夫が給料明細を渡してくれたらそのたびに「ありがとう」と私はいう。ごくろうさま、とねぎらうよ。

こういうことを積み重ねて、私はようやくわかったのだ。
「人のためにやってる」と思うから腹が立つ。
すべては自分のため。自分の満足のためにやっていると思えばいいのだ。
最初に自分ありき。
まずは自分のためにいろんなことをやる。自分がしたいことをする。
基本はそれだけなんだと思う。
それが、たまたま誰か他の人の役に立ったり、ためになったりすることもあるかもしれない。
でも、はじめからそこを目標にするのは違うよな、と思ったんだ。

このブログを書くのも同じこと。とりあえずは自分のために書いてる。自分が言葉で表現したい、と思ったことを文字で書き連ねているのだ。
それでいいよなあ、と思う。

他人のために自分を投げ打つという行為は、曽野綾子さんがよく称賛してる。キリスト教のシスターという人たちが、アフリカなどの貧しい国、貧しい地域へあえて身を投じて、その地の人たちのために尽くす、という行為。
もちろん素晴らしいことだと思うし、私にはとてもできないとも思うのだが、でもそれも結局は自分がそれをしたいと思ってるのが根本にあるんじゃないかなと思っている。
誰かに強制されたわけでもないのだから、やっぱり「そういうことをしている自分」が気に入ってるという側面はあるだろうと思うのだ。

というか、そうでないとうそ臭いと思ってしまう。
基本は「自分のためにやってます」というスタンスで、期せずして人の役にも立ってしまってる、という状態があらまほしき姿であるよなあ、と思うことであるよ。




というわけで、去年あたりから私は考え方を変えた。
家のことで、「夫や息子のために」何かする、というのではなく、「自分がそうしたいから」する、というふうに変えたのだ。
そしたら、掃除は自分が気持ちよく過ごすためだと思えるようになったし、、洗濯も、自分が落ち着いて暮らすためにやってるのだと、思えるようになった。
めんどくさいアイロンかけも、「アイロンのかかってないワイシャツを夫が着ているというストレスから逃げるため」にやってる。
こんなふうに考えるようになったら、ごはん作りもちょっと楽になった。今までは何が何でも手作りで、主菜副菜汁物小鉢、フルセットで用意して、器や盛り付けにも気を配らなくてはならないと思い込んでいた。当然ものすごくストレスだった。だって私自身はそのことにあまり価値を見いだせない人間だから。お腹に入ったらみんな一緒やん、と思ってしまうタイプなのだ。
でも、「自分のために」と思うようにしたら、自分がちゃんと食べたいときはやるし、そうでないときは思いっきり手を抜いて、そのことに無駄な罪悪感を持たないでいられるようになった。

無駄な罪悪感というのは始末におえないところがあって、同じ罪悪感を他人にも強制したくなるという性質がある。
でも同じ罪悪感を他人が抱くとは限らないので(というかむしろありえない)、結局自分ひとりがイライラをためこむだけ、という誰も得しない状況になるのが関の山である。

「自分のために」と思えるようになったら、自分がやりたいことも、時間をやりくりしてできるようになってきた。
今までは、それすら罪悪感があってできないでいたのだ。
「母親は自分のことは後回しにして、子供の世話をするものだ」という思い込みがあって、それにがんじがらめにされていた。自分のやりたいことをしようとするとものすごく後ろめたくてできないのだが、できないと思うと悔しくて、子供に八つ当たりしてしまったりする。
「こどものために」と思ってどれくらいのことを諦めてきただろう。でも結局、そういうあきらめを子供のせいにしてしまって、「だから子供なんて邪魔なんだよ」と思ってしまう。
そんなふうに思うくらいなら、「こどものために」なんて思わないで、「自分のために」する、と発想を転換したほうがずっといい。



怖いのは、「人の役に立ちたい」という気持ちが自己否定の上に乗っかってる場合がある、ということ。
何もしてない自分はまったくの役立たずで、生きてる意味が無い。だからせめて人の役に立ちたい。そうすれば生きててもいいと思えるから。
こういう筋道で「人の役に立ちたい」と思うことだってあるのだ。
私がむかし、献体を考えたとき、臓器移植提供に同意したとき、まさにこんなふうに思った。
私なんて、生きててもなんの役にも立たない。だったらせめて医学のためにこの体を使ってほしい。生きたくても生きられないという人がいるなら、私なんかの臓器でよければどんどん使ってほしい。そうすれば初めて私は生まれてきてよかったと思えるだろう、と、そんなふうに思った。
これはまあ、今でも基本的には変わってない。ただ献体は申し出が多くて現在は受け付けてないという話を聞いたので、ちょっと保留にしている。臓器提供はカードを持ってるけど、これも早くしないと提供できる年齢を越えちゃうんだよなあ。角膜だけは年をとっても大丈夫らしいが。


私は自分には価値がないと思ってるくせに、そんな自分のために何かしようと思ってるんだな。
そのあたりの矛盾が滑稽だわね。にひひ