気付きたくなかった本心 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

自分の本心を見て見ぬふりしつづけると、そのうちに本心そのものがわからなくなってくるようです。

最近とみに増えてきたいらだちも、元を正せばそうやって見て見ぬふりを続けてきたつけが回ってきたせいかもしれないなあと思うようになりました。

昨日は些細な事で息子に怒りを爆発させてしまい、台風の影響もあって(強風で家が揺れて不安になったんです)かなり気持ちが落ち込んでしまいました。
今日もまだうまく回復しきれてない感じなのですが、ちょっと胸に刺さる文章を目にしたので、それを元にじっくり考えてみようかと思っています。

その「胸に刺さった文章」というのは、「ほぼ日刊イトイ新聞」水曜日掲載の「大人の小論文」のコーナーにありました。
ここ数週間ほど、「怒り」について考察を重ねていて、今日は読者からのメールが紹介されていました。
ここで扱われている「怒り」は、社会的なものではなく、個人の、わりとしょーもない怒りです。だから表示も「イカリ」とカタカナ表記になってます。
私がゆうべ炸裂させてしまったものも、まさしくこの「イカリ」なのでありました。

冷静になって考えてみれば相手(息子)には悪意もなく落ち度もなかった。ただ子供らしいうっかりさと、子供らしい体調の波があっただけでした。
それなのに、私はそれを「私への敵意」と受け取ってしまいました。

抽象的な書き方はやらしいので、具体的に書くと。
「夕方になって、友達と遊びながらお菓子を食べてしまったので、夕ごはんが全部食べきれなかった」
というだけのことです(うわー、書いてて恥ずかしくなってきた)
別に昨日に始まったことではなく、今までも何度か同じことがありました。子どものことですから、日によって食欲にムラがあるのは当然ですし、間食が遅ければご飯も入らないでしょう。または食卓に並んだものが食欲をそそるものではないときもあります。

そう、今になって、客観的に考えてみれば、何もあそこまで激怒するようなことでもなかったのです。今ならそれがわかるんですけど、あの瞬間はなんだかどうにもならない激情に囚われてしまって、自分をコントロールすることができなくなっていました。

昨日のメニューは息子からのリクエストだった、というのも一因だったかもしれません。食べるって言うから作ったのに。そういう思いが確かにありました。
まったく手を付けなかったわけではなく、全部食べなかった、というだけのことに、どうしてあんなに怒ってしまったのか。

あのときの感情は、表層的には「出されたものをきちんと食べることを躾ける」ためだということにしていましたが、たぶんそれは単なる大義名分であって、本心はそうではなかったのだと思います。でもそれを認めたくなかった。認めたくないくせに、怒れば怒るほど、口から出てくる言葉は恩着せがましく、鬱陶しい繰り言ばかりでした。しまいには、そんなことを子ども相手に言い募る自分に愛想が尽きそうになりました。というかまあ、かなり愛想が尽きたんですけども。



ちょっと話は変わりますが、私がこんなふうにストレートに感情をぶつけることができるのは、実は自分の子どもに対して、だけです。それも、せいぜい10歳くらいまで。それ以上の年齢になると子どもといえども独立した人間としての存在感が増してくるので、おいそれと感情をぶつけることができなくなります。
ということはつまり、裏返していえば、幼いうちであれば逆襲される心配もなく、安心して生の感情をぶつけても大丈夫だ、と思っているということになります。
これはけっこう前からうすうす感づいてはいました。
自分の子ども以外の人に、ナマの感情をそのままぶつけることは、私にはできません。怖くてできないのです。
でもいろんな感情がないわけじゃないんで、じゃあその感情はどうするかというと、内側へ仕舞いこむわけです。そして日記に書いて発散する。もしくは空想の中で言いたいことを言う。あくまでも空想なので、決して相手に直接言うことはありません。
ほんとはこんなこと書くのも怖いんですけどね(笑)

子どもに対しても、今まではただ言うだけでした。言うだけでしたけど、やっぱりエスカレートするんですね。解消できないから。
「腸が煮えくり返る」という言い方がありますが、あれはほんとですね。どんどんお腹の中が熱くなって、マグマのように何かが噴き上がってくるのです。
食器を投げつけてしまいたい。何かを壊してしまいたい、という暴力的な衝動にも襲われます。でもいつもそれにはブレーキをかけていました。
食器を投げて割れたら、片付けるのは自分です。ちゃぶ台をひっくり返しても、片付けるのは自分です。星一徹はやりっぱなしにできたけど、私は主婦なので、結局自分で片付けるハメになるのは目に見えています。
だから、むわーっと沸き起こる暴力衝動をぐっと押さえつけてきました。

そうすると、確かに家は荒れませんが、気持ちの回復には時間がかかりますし、いつまでも「相手が悪い」と思ってムカムカし続けることになります。

ところが昨夜は違っていました。私は初めて怒りの衝動にまかせて、息子の箸をへし折ってしまったのです(((゜д゜;)))
そのとき、今まで感じたことのない強い後悔と反省の念が一気に押し寄せてきました。勢いで折ってしまったものの、折った瞬間から我に返り、「私はいったいなにをしているんだ」と痛烈に後悔しはじめたのです。
後悔先に立たず、ですけどねえ……。

いらないお皿を1枚割るだけでも、はっと我に返るという効果はあるのかもしれません。その瞬間に自分の中にある凶暴な気持ちが、食器とともに砕け散るのかもしれない。
息子の箸をボキッと折ったときに、私の怒りもボキッと折れたような気がしました。


そして、今日目にした言葉。
「怒りは、何かの代理人である」
本当の感情が隠されて、怒りという別の表現になっているのだ、と書いてありました。
私はほんとうはどう感じていたのか。
日頃、「子育ては楽しくない」とか「ご飯作りは面倒だ」なんてことを公言していますが、本当は違うのかもしれないと思いました。
私がご飯作りを厭うのは、作りがいがないからです。
あれが嫌い、これは嫌、と言われることが多く、しかもそのほとんどが私の好きなものなので、レパートリーの少ない私は困ってしまうのです。
また、新奇なものには興味を示さない夫と息子ですので、どこかで見かけたちょっと珍しい料理ですとか、変わった味付けなどは、たいていはねつけられてしまいます。
夫は大人ですから、嫌いなものでも我慢して食べてはくれます。でも我慢してるのは見え見え。息子は子どもですから、嫌いとなると頑として食べません。
そういう毎日が積み重なると、だんだんどうでもよくなってくるんですよね。でもやめるわけにはいかないと思って、必死で気持ちをつなげて、ご飯作りをしている、と自分では思っているのです。
だから、その部分を否定されたように感じると逆上してしまうのかもしれないなあと思いました。
夫は「独立した人格」と思っているので、直接怒りは表明しません。
でも、息子にはまだ甘えがあって(私の)、つい思い切りナマの感情をぶつけてしまっているのかもしれません。
あたしはこんなに頑張っているのに、とか。食べてくれなくて悲しいとか。残念だとか。悔しいとか。
そういう思いが反転して怒りという形で噴出しているんじゃないか、と思いました。


私が、子どもがあんまり好きじゃない、と言ったり思ったりするときはたいてい、子どもが羨ましい、と思う時です。
辛い・悲しい・寂しい・痛い、そういう感情を思いっきり爆発させている。
そういう場面に遭遇したとき、私の中には二種類の感情がうまれます。
一つは大人としての感情。受け止めてあげたいな、という気持ちです。
と同時に、子どものような感情も生まれるのです。意地悪な、冷ややかな気持ち。
「泣いたってだめなんだよ」とか「甘えるんじゃないよ」「誰も助けてなんかくれないよ」「そんなふうにしてしまった自分が悪いんじゃないか」
まるっきりレベルが子どもと同じになってしまってます。
そういう気持ちになるとき、「私は子どもが嫌いだ」と思います。だってずるいから。彼らはそうやって感情を表すことで、誰かに受け止めてもらえるから。


私は、自分の子供あいてに感情を爆発させることで、子どもに受け止めてもらおうとしているのかもしれません。
それが「子どもに甘えている」ということなのでしょう。

昨日箸を折ってしまったことで、私の中にある甘えが明確になりました。
たいていの私の怒りは、子どもに甘えているだけなのでしょう。

親として教えなくてはならないこと(善悪や生活習慣など)は別に感情的に怒らなくても教えることができます。
間違ったことをしたときに叱るのも、感情は不要です。
「叱る」と「怒る」の違いはそこにあるんですね。


破壊行動は何も生み出さないと思っていましたが、やりようによっては突破口になることもあるんですね(笑)
息子には新しい箸を買ってこようと思っています。もうちょっと手の大きさに合ったかっこいいやつを。