なぜ子どもを褒められないのか | 10月の蝉

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先日テレビで、宮部みゆき原作のドラマ「長い長い殺人」が放送されました。
私はテレビは見なかったのですが、これをきっかけにして、久しぶりに原作を読み返していました。

事件の実行犯である青年の生育歴の部分を読んでいる時、なんというかとても見慣れた発想というか考え方に出会ったような気がしました。

その青年は、いわゆる「とてもイイ子」だったんですね。勉強もできるし、素直で、進んでいいことをする。そうすると周りの大人が褒めますよね。そうやって褒めてもらって育ってきた、と書いてあるのです。
優等生でしたから難なく一流大学に合格し、成績優秀で卒業して、一流会社に就職します。ところがここをすぐに辞めてしまうのです。
「自分には合わないから」と言って。要するに、このハイレベルの俺様には相応しくない会社だ、と言うわけです。それくらい自分のことを優秀だと思っている。
まあ、本当にハイレベルならいいんですけど、こういう場合はたいてい、「思い上がり」なんですね。それまでの人生で挫折を知らないために、自分のことを買いかぶっている。そして、プライドの高さから現実をありのまま認めることができずに、現実を否定して逃避してしまうわけです。

こういう人、今でもけっこういますよね。

私がひっかかったのは、こういう人が出てくるのは周りがやたら褒めちぎったからだ、と宮部さんがどこかで思っているのかな、というところでした。

「子どもは褒めて育てたほうがいい」と最近は言われていますね。
教育講演会なんかでも、そういう話をする人が多いです。
私も、貶すよりは褒めた方がいいよな、と常日頃思っているんですけど、他のお母さんにそういうと、大抵の人は「でもウチの子には褒めるところなんて全然ないよ」と言うのです。
日本人的謙遜が入っていることを考慮してもなお、わりと本気でそう思っている人が多いんじゃないでしょうか。
あるいは、実は心のなかでは「いいところがある」と思っていても、それを本人に言ってしまうと図に乗るから駄目だ、と思っているのかもしれません。

本気で褒めるところはない、と思っている人は、子どもに過大な要求をしているか、自分の理想像にがっちり当てはめようとしている人でしょう。
できもしないことを要求すれば、常に子どもは失敗していることになりますから、褒めるところなんてないでしょうし、自分の理想像にはめ込もうとしている場合には、そこから外れることのほうが多い(子どもは他人ですから当然です)ために、やっぱり褒めるところなんてない、と思うでしょう。

「子どもは褒めたら図に乗るから駄目だ」という考え方。宮部さんの小説から感じたのはこちらの方でした。
褒めたら子どもがいい気になって増長し、高慢な性格になる。
そう思っている人はけっこういるような気がします。
でも、本当にそうなんでしょうか。

「長い長い殺人」の犯人の青年は、確かに周りから褒められて成長してきました。
でも彼が褒められたことというのは、そのほとんどが外側に出た行動だけ。
学校の成績であったり、行動の結果だったり。つまり「成果」についてだけ褒められてきたわけです。
周りの要求を察知してそれに合致する行動を取ると報酬が得られる。
そんなふうに学習してしまったのではないでしょうか。
とすれば、彼の自尊心は常に褒美によって担保されている、ということになります。逆に言うと、褒められなかったり褒美のない行為は意味がないことになるのです。

「図に乗るからダメだ」というときの、「図に乗る」。
これは実際にはどういう状態を指しているのでしょうか。
視点は親側にあります。親の目からみて「いい気になっているように見える」「明るくうきうきして、高揚感にあふれている」「自信を持って輝いているように見える」そういう状態のときに「図に乗っている」と言うのではないでしょうか。
子どもが自分に自信を持ち、堂々と「これでいいんだ」と胸を張っている姿は、本来なら喜ぶべき姿であるはずです。
でも親にはそういうふうには見えない。
「調子に乗ってる」「いい気になってる」「天狗になってる」と思う。
そして、そういう思い上がった状態から早くたたき落として現実の厳しさを教えてやらなくてはいけないと思ってしまう。
なに、現実の厳しさって、要するに「そんなふうに輝いていると世間の嫉妬を買うよ」ということであり、なによりまず親自身が子どもに嫉妬しているんですね。

私にも覚えがあります。
娘はけっこうサバイバル能力がある方です。忘れ物をしてもなんとかしてしまうし、自己肯定感も結構ある方です。そうなるようにと頑張って育ててきたわけですが、やっぱりたまに「なんで凹まないかなあ」とむかっ腹が立つことがあるのです。私自身は自己肯定感がなくて、すぐに「だめだあ~」と落ち込んでしまうし、失敗が怖くて、もし失敗したらパニックに陥ってしまうような人間なので、そうならない娘が羨ましくて妬ましくなってしまうんです。このあたり、けっこう複雑な心境なんですけどね。


「褒めるところがない」という親は、じゃあ、どこなら褒めるかというと、テストの点数ですとか、かけっこの順位ですとか、学級委員などの役職などの、「成果」がメインのことが多いようです。
テストで100点とってきたなら褒めるけど、50点じゃあ褒めようがない、とか。運動会のかけっこは、6人中4位だった。こんなのじゃだめだ、とか。
クラスで何の委員もやってない。手も挙げない。発表もしない。家に帰ってきても宿題もしない。やっても字が汚い。鞄の中はぐちゃぐちゃ。遅くまでゲームばっかりしてる。全然親の言うことを聞かない。これじゃあ褒めるところなんて全然ないじゃないの、と。

でも、毎日元気に学校へ行ってるじゃないの。友達と仲良く遊んでるじゃないの。
そんなふうに言うと「それは当たり前でしょ」と言われます。
果たして本当に「当たり前」でしょうか。
当たり前ってことは実は何一つないんじゃないかと私は思っています。
自分の身におきかえてみればわかることですけど、昨日よりちょっとがんばったことを「そんなの当たり前じゃん」と言われてやる気が出るでしょうか。
「ちょっと一手間かけてみたんだけど」と料理を出した時に、「だからなに?」って言われたらがっかりしませんか。
子どもも同じだと思うんですよね。日々成長している彼らなら、大人の私よりもっと毎日が変化しているはず。赤ちゃんの時は寝返りうっただけであんなに喜んでいたのに、いつのまにか100点とらないと満足できなくなってしまってる。
点数じゃなくて、それに取り組む姿勢や意欲を褒められた方が、やる気が出ると思うんですよ。それは、根本的な存在自体を認めてもらってるということにつながります。

「褒める」とは「おべんちゃらを言うこと」だと思っている人もいます。
すごいねー、えらいねー、と誉めそやす。お世辞を言う。
褒めるとはそういう「嬉しがらせ」を言うことだと思っていると、なかなか自分の子供に対して褒めるなんてことはできなくなります。利害関係の絡む他人にならいくらでもおべんちゃらを言うけれども、どうして自分の子供におべんちゃらを言わなくちゃいけないのかと、そう思う気持ちはよくわかります。
「子どもは褒めて育てましょう」というその言い方が悪いんじゃないかと思うんですよね。「褒めよう」っていうから勘違いされる。
辞書の定義によれば、「褒める」とは「すぐれている、よくやったと言う」ということだそうです。となれば、よほど子どもが素晴らしい(と思われる)ことをしてくれないと褒める事なんてできませんよね。
私は、「子どもの気持ちを認めて育てよう」にした方がいいんじゃないかと思いますね。子どもの存在、意見、感情、主張を認めて育てる。
認めるというのは、なんでも受け入れるということではありません。
「そうなんだね」といったん受領する。そこから、「でもね」とつなげていくことで子どももこちらの言うことを聞くようになると思うのです。

そりゃ時には親は壁となって子どもの前に立ちはだかる必要も出てきます。でもそれは子どもがきちんと自尊感情を育てることが出来たあとの話で、乳幼児や小学生くらいまでは、まず認めることから始めないと。


なんてことを偉そうに思ったりしているわけですが。
でも、「僕は足が遅いんだよ」という息子に、「そうかあ。じゃあ一緒に、早くなる練習をしようか」と持ちかけて、「いや、いいよ。僕はそういう人なんだから」と言われて目が点になりました(笑)
うーん、それは個性として認めるべきなのか、もうちょっと向上心を持て、というべきなのか。
子育ての現場は、判断に迷うことばかりで、なかなか学説どおりにはいかないのでありました。
日々是精進ですよ。(;´▽`A``