料理と愛情 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

私にはいろいろわからないことがあるんですが、この「料理と愛情」の関係もよくわからないことのひとつです。

よく言いますよね、「愛情のこもった料理はおいしい」とか、「隠し味は愛情」とか。あれがわかんないんです。
要するに、食べる人の気持ちを想像して作るってことなんでしょうか。
とすると、食べる人の好みや体調に沿った料理が「愛情いっぱいの料理」ってことになりますか。

でも、そうすると、不特定多数を相手にしたレストランなどの料理はどういうことになるのかな。
あるいは、お店で売ってるお惣菜はどうなんでしょう。
あれだって一応「愛情込めて」というか「心をこめて」作ってるんですよね。
そういう、外食産業サイドに立った話の場合は、プロの調理人がいかに誠心誠意調理しているか、ということが熱心に語られるわけですが、その一方で「外食なんか」とか「お惣菜を買ってくるなんて」という非難も同時に存在しています。
コンビニで売ってるお弁当も、あるときは一人暮らしの栄養不足を救う救世主のように扱われるかと思うと、「味気ないもの」の代名詞のように扱われたりします。
特に子どもが絡んでくると、圧倒的に「手作り」礼賛ですわね。
運動会や遠足のときに、子どもにコンビニ弁当をもたせようものなら、親としての愛情を疑われてしまいますし、そういう場合のコンビニ弁当は、イコール「手抜きの食事」の意味合いで使われるものです。

冷凍食品やインスタント食品に関しても同じような相反する扱いがあります。
開発し製造している側は、それなりに栄養について考えたり、価格との折り合いを考えたりして製品を作っています。
そして、その進歩の恩恵を被っている人たちも確実にいるはずなのに、別の側面では「冷凍食品なんて」とツバを吐きかけるような勢いで見下されています。
この扱いの差はなんでしょうか。

不特定多数に販売するのではなく、個人消費(つまり家族で食べる)する際に、調理担当の人(主婦、もしくは主夫)が自分で作る。材料を買ってきて、自宅で下ごしらえし、自分で調味し、調理する。
そういう一連の行為を「手作り」と言うんですよね。
私が不思議なのは、どうしてこの行為だけが「愛情」と結び付けられて、しかもまるで良いことのように言われるのだろうか、ということです。

私が見た限りでは「愛情を込めて作っています」というとき、実際には「本人が愛情を込めていると思い込んでいる」にすぎないことが多いように思えます。
ちょっとしたひと手間、が非常に重要視されるのが料理の世界ですけど、それが本当に食べる人に必要かどうかをちゃんと確認してるんでしょうかね。
「愛情込めて手間隙かけて作ったんだよ」と明言されれば、その労苦に対しては感謝の念を持たなくてはならないでしょうが、食べるほうが「別にあんまり変わらないし、大変ならそこまでしなくてもいいよ」と思っていたとしたら、作る人の「愛情」は空振りするんじゃないでしょうか。



私は自分のことを「食いしん坊」だと思っていました。食べることは大好きだと思っていたんです。でも最近ちょっとあやしくなってきました。
もちろん嫌いではないんですけど、さほどこだわりがないんじゃないかと思うようになったんです。
どこそこの、何とかでないとダメだ、とか、あの店の◯◯が食べたい、といったような欲求がほとんどない。
そりゃあ食べるならおいしい方がいいけれども、私が持っている「おいしい」の幅が世間一般よりかなり狭いということがわかってきました。
テレビのグルメ番組や食べ物紹介のコーナーなどを見ていても、おいしそうとか食べてみたいと思うものが存外少ないのです。
他人様が食べているのは全然かまわないんですよ。「おいしい~~」とおっしゃっていると、「はあ、そうなのか、おいしいのか。よかったね」と思います。
美味しそうに食べているさまを見るのは好きなんですよ。だからグルメ番組はそんなに嫌いではない。よく「他人が食べているのを見て何が楽しい」と怒ってる人もいますが、「しあわせそうな他人の様子」を見るのは楽しいですよ。それがたとえ「仕事」だとしてもね。
ただ、私はあんまりそそられない、というだけの話。

食べるだけじゃなく、作る方も盛んですよね。
私はむしろこちらのほうが苦手なんです。作っている様子をただ観察しているのはいいんですけど、たいていの場合は暗に「さあ、あなたもこうやって作ってみなさい」というメッセージを伴っているんですよねえ。

むかし、一人暮らしを始めたばかりのころは、ずいぶんがんばって料理に挑戦していました。親元で暮らしている時には何もしてこなかった(させてもらえなかった)ので、ゼロからのスタートでした。自分が食べたいと思うものを自分で作ることがとても楽しくて、たくさん料理の本を買ったり雑誌のレシピを集めたりして、いろんな料理をしたものです。
あのころは、自分のために料理することが楽しかったし、そこから派生して恋人に料理を振る舞うことも楽しいことになっていました。

それがいつからか、ただの苦痛に変わっていたみたいなんですねえ……。
今の私にとっては、毎日の食事の支度は苦痛でしかありません。やらなくちゃいけないから、義務だから、仕事だから、それなりにやっているだけ。やらなくてすむならやりたくないです。
そういう気持ちだからか、冷凍食品、インスタント食品、お店で売ってるお惣菜、外食に対する批判的な意見を耳にすると、すごく心がざわつきます。
「だめですか? そういうものはだめなものなんですか? それを作っている人たちの立場や気持ちはどうなんですか?」
なんて思ってしまう。そういうものを利用することが、イコール主婦失格みたいな意味合いで言われてしまうと、すごく苦しい。

定期購読している「ビッグコミックオリジナル」という漫画雑誌にも、食に関する漫画がいくつか掲載されています。
ちょっと前だと「玄米先生」、今だと「ひよこ先生」ですか、それから和菓子職人の話、もうひとつ「深夜食堂」。これらが今絶賛連載中です。
先日、こういった漫画に登場する料理を実際に作ってみたという本が発売されたそうで、あちこちの書評にとりあげられています。元はブログだったとか。
そういうのを作るのは、ずいぶん楽しいだろうなあと思うんですけど、なぜかその評価の方向が、「料理=愛情」という感じになっている気がするんですよ。
玄米先生やひよこ先生の話は、はっきりと「手作り礼賛」の方針をとっています。自然食とか有機栽培とか手作り弁当とか、そういうものが「良い物」として扱われています。良いことだというのはわかるんですけど、その裏側に、手作りじゃないものはいけないこと、という思惑が透けて見えるのがしんどいのです。
物語の展開でも、たいていは、コンビニ弁当は悪者だし、自分で調理しない親はダメ親として描かれています。企業が販売している食べ物は体によくないもの、出来合いの惣菜は愛情不足として扱われています。
そこがしんどい。しんどいし、一概にそうとも言えないんじゃないの、といつも思うのです。

愛情。
愛情ってなんですか。
一括りにして「愛情」といい、無条件でいいことのようにいいますが、それがひとりよがりのものじゃないという保証はないでしょう。突き詰めれば我が身可愛さである、ということだってあるんじゃないでしょうか。

料理とは関係ありませんが、昨日ちらっと見た「バクマン」というアニメで、気になる場面がありました。
昨日見たのは、主人公とおぼしき少年が病気になって入院しているところ。彼は人気の出始めた漫画の作者(作画担当)なんですが、連載を休止するかどうか、という判断で紛糾する、というストーリーでした。
ご存知の方には言わずもがなのことなんですけど、主人公はほんとに漫画が好きで才能のある少年なんですね。自分の生きる道はこれだ、ということを、あの若さで見つけることができた、とても幸せな人間なのです。
でも、母親はいい顔をしない。なぜなら、彼がつい夢中になって漫画を描いていたことで体を壊してしまったのだし、このまま放っておくと彼が死んでしまうかもしれない。実は彼の叔父も才能ある漫画家だったのですが、やはり過労から死んでしまったという過去があるのです。だから母親は必死になって彼から漫画を取り上げようとします。
母親にしてみれば、息子が漫画を描こうとどうしようと全然関係ない。とにかく息子が元気になって生きていてくれればいい、としか思っていないのです。そのためなら、本人が生きがいだと言っている漫画なんて、抹殺してしまってもいいと思っている。
出版社はその母親の意向に沿って、彼に連載休止を言い渡します。とにかく病気を治せと。高校も卒業して(高校生なんですね!)病気も治ったらまた連載を再開してやる、と言います。
物語は、仲間の漫画家たちのボイコット騒ぎに発展したところで「また来週」になってしまったんですが、私はそれよりあの母親のことが気になってしかたありませんでした。

親の気持ちとしてはとてもよくわかります。我が子が死んでしまうかもしれないとなったら、全力で阻止したいと思うもの。漫画を描くことが病気の悪化につながるかもしれないなら、漫画なんてやめちゃいなさい、と言いたくなるのはよくわかります。
でも、この場合、漫画を描くことはそのまま彼の生きることにつながっているんですよね。そういう、「生きがい」に直結しているものを、そんなに簡単に否定しちゃっていいんだろうか。
病気を治せと簡単に言うけれども、病気の治療には精神状態が大きく関係するものです。好きな事ができる、というだけで前向きな気持ちになれる。前向きな気持ちになれば自然治癒力も高まるし、免疫力もあがる。そういうものなんですよ。
あの漫画の場合は、限定的な停止でしたから、もしかしたら「早く治してもう一度漫画が描きたい」という推進力に変わる可能性もあるでしょう。
でも、たとえば親が、「この際だから全面禁止してしまおう」と目論んでいたら。
好きなことを禁止されて、やる気の出る人はそうはいないと思います。
こういうことを、愛情の名のもとにやってしまってる親はたくさんいるんですよね。

もう一つ、漫画の話。
日曜の朝7時から「バトルスピリッツ」というアニメが放映されています。
今日は主人公の両親が登場していました。
ポケモンのときも思ったんですけど、こういうカードバトルものって、主人公は子どもなのに親元を離れて旅をしている設定が多いですよね。
年端もいかない子どものようなのに、なぜか「仲間」と旅をしているのです。
今朝の話では、主人公の父親はバトルスピリッツのバトルフィールドを作り出した人だと言われていました。で、主人公と両親は基本的に別々に暮らしているようなんです。久しぶりの再会に「おう! 元気だったか!」と非常にあっけらかんとした態度をとってたんですねえ。
アニメだから、といってしまえばそれまでなんですけど、「バクマン」の母親とは正反対の親のあり方が、非常に興味深かったです。
私はバトスピの両親の方がいいなと思いますけどね。
子どものことを思っているのはどちらも同じでしょうが、バクマンの母親は突き詰めれば自分の安心のために子どもを囲い込もうとします。子どもの本心、望み、人生については見て見ぬふりをする。「愛情」という言葉を振りかざして、要するに自分の思い通りに子どもを動かそうとしているわけです。
バトスピの方は、それに比べると子どもの自主性を尊重しているように見えます。というか、親も自分の人生を生きるのに一生懸命なんですね。そういう点では親と子は「人生の同志」という感じがします。
こういうやり方をするには、親の方に非常に強い克己心が求められます。「ぐっとこらえる」という対応ですね。どんなに自分が心配であろうとも、それが子どもの選んだことであれば、邪魔をせずに見守る。これは「言うは易く行うは難し」なんですよねー。囲い込んだ方が断然楽ちんです。
でも、それじゃあ子どもが潰されてしまいます。母親の愛情で潰される子どもは、実はたくさんいると思います。

「料理は愛情」という考え方は、間違ってはいませんけど、あまりにそれを強調するのはどうなんだろう、と私は思います。
手作りなら愛情、というのはあまりにも短絡思考なんじゃないだろうか。あまりにも無邪気すぎないだろうか。
あまりにも「手作り」が手放しで礼賛されているのを見ると、その押し付けがましさが息苦しいです。

このごろは、正論ばやりです。なんでもかんでも、正論をぶつ。
「子どもは可愛い。親なら絶対子どもを可愛がるはず」とかね。
正論ですから間違っちゃいませんけど、でも正論というのは、そこから外れることを許してくれません。ものすごく窮屈で狭苦しい考え方なんです。その分安心感も絶大ですけどね。
ネットでよく見かける炎上や批判のほとんどは、こういう狭苦しい正論に立脚しています。実に不毛だなあと思うし、小さいなあと思うんですけどねえ。


最近はちょっと「食べること」に関して壊れかけているので、よけいにいろんなことを考えてしまうのかもしれません。
どんなに手間をかけたって、食べるのは一瞬のことだ、と思ったり。
体重が気になるから食事制限をしようと思うんだけどうまくいかなくて、どうせ老い先短いんだからもうどうなってもいいや、と開き直ってみたり。
一生懸命作っても、子どもが思ったように食べてくれなかったり、ダンナが無反応であっという間に食べてしまったり。
食べずには生きていけないので、気づいたら四六時中食べることを考えていて、なんだかうんざりです。
1錠飲めばそれでよし、みたいな薬ができないもんですかね。この食欲の煩悩地獄から解放されたいです。