「行かない」選択 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

朝刊に、「子どもが幼稚園や保育園に行きたくないと言ったら?」という記事が載ってました。
この時期、子供たちに疲れがたまり、あるときふと、「幼稚園、行きたくない」と言い出す子どもが増えるんだそうです。
大人でもそうですけどね、この5月の連休明けというのは疲れのたまる時期なのです。

大人だと「出社拒否」、学生だと「登校拒否」、園児だと「通園拒否」ですか。
こんなふうな言葉にしてしまうと、なんだかすごくおおごとのように聞こえます。
実際、かつては(もしくは今でも)登校拒否なんてどえらい問題でした。
それこそ、母親の育て方が間違っていたんだとか、甘えだとか、社会からの脱落だとか、あらゆる方面から非難轟々だったのです。

最近でこそ多少理解が進んだというか、「不登校でもいいじゃないか」という意識が見られるようにはなってきたようですが、それでもまだまだ「登校拒否=人間失格」という意識が根強く残っているような気がします。
「別に無理に学校へ行かなくてもいいと思うんですよ」とさらっといえる人が出現してきてはいるものの、まだ相当数の人は「いやそれでも、やっぱり行かなくちゃいかんのじゃないの?」と思っているでしょう。
思っているからこそ、「治す」という概念が出てくるわけだし、逆手にとって、「学校へ行かなくてもなんとかなる」というやり方を主張することもあるわけです。

幼児の、突発的な「行きたくない」に対しては、大騒ぎをせず、まずはその気持ちを受け止めることが大事なんだそうです。
「そうかあ、行きたくないのかあ」と、いったん受け止める。
してはいけないのは、「なぜ?どうして?なにがあったの?」と問い詰めること。
これ、どうしても親はやりがちなんですよね。
たぶん「人間のすべての行動には明確な理由があるものだ」と信じているからだと思うんですが、子どもの行動にもそういった明確な理由があるはずだと思ってしまう。理由がわかれば対処のしようもあるわけで、問題解決のためにはまず理由を知らなくてはならない、と思ってしまうのです。
ビジネスならそれでいいんですけど、「人間を育てる」という非常にファジーな行為の中では、これはもっともまずい対応のしかたなんじゃないか、と思うようになりました。
「赤ちゃんは言葉が話せないから泣くんだよ」とさんざんいうくせに、ちょっと言葉が操れるようになったら、すべての行動の意味を説明できるようになる、と思うのはあまりに早計です。だいたい自分だって全ての行動や感情の意味を説明できるわけでもないのにね(笑)

それと、この「いったん受け入れる」ことになぜ抵抗が大きいかというと、つい次のように考えてしまうからです。
「いま、ここで、子どもの要求を全部受け入れてしまったら、この子はこの先もずっとこうやって幼稚園や学校をさぼるようになるんじゃないか。怠け癖がついて、ダメな人間になるんじゃないか」
もうひとつ、自分では意識されない領域では、こんなことも思ってしまいます。
「そんなダメな子にしてしまったら、私が親として失格の烙印を押されてしまうのではないか?」
いったい、いつまで休ませていいものか。判定の基準はなにか。
それがわからないことが親を不安にさせるんですね。
だからつい、躍起になって学校へ行かせようとしてしまう。
外から見れば、ざっくりと「学校へ行ってる、行ってない、時々行ってる」という状態にしか見えなくても、その家の中では1分1秒が戦いの連続なんです。


うちの息子が通う小学校にも、数人不登校の子どもがいるんだそうです。他にもちょっと特別な支援を受けている子もいます。保健室の常連さんもいるかもしれない。その子本人もいろいろ苦しいでしょうが、彼らの親御さんもさまざまに苦しんでいるのでしょう。
先日、PTAの広報紙にクラス写真を掲載したらどうか、というアイデアが出ました。(私は今年、広報委員をやっています)
昔、そういうのを見たことがあるなあ、と私は思いました。
それぞれのクラスが、思い思いの場所に集まり、先生と一緒に写真を撮る。クラスごとのカラーが出てとても楽しい写真になりますよね。
それを新年度第1号で紹介しようとしたのですが、学校側から待ったがかかりました。
学校へ来られない子が写真に写らない。そのことでその子どもや親が嫌な思いをするかもしれないから、という理由だったそうです。

私はちょっと意表を突かれました。
なぜなら、登校拒否をしているということは、とりあえずその子自身は学校(もしくはクラス)を拒否しているわけで、そんな中に自分がいないことを問題視するだろうか、と思ったからです。
しかし、学校が恐れるクレームは子ども自身ではなく、その親からのものでした。
「どうしてクラス写真にうちの子が写ってないんだ」というクレームがくることを恐れているらしいのです。
実際に、1週間ほど子どもが学校へ行かなくなったことがある一人のお母さんは、「私だったらやっぱりちょっと気にするなあ」と言いました。

学校へ行けない、行かない子どもも苦しんでいますが、その親も、子どもとは違ったところで苦しんでいるんだなあ、と目から鱗が落ちた気分でした。
そうか、親はそれでも子どもに学校へ行ってほしいと願うんだな、と。
他の子と同じように、普通に、当たり前のように学校へ通う子どもになってほしい、と思っているんだ、と改めて気付かされました。


私が子どもの頃は、たぶん今ほど不登校を選ぶ子どもは多くなかったと思います。
そもそも世間の常識が「子どもは学校へ行くもの。女は結婚して子どもを生むもの。男は働いて家族を養うもの」に決まっていたからです。
大人も子どもも、生き方がほぼ決まっていて、そこからはみ出すことなんて想定されていなかったのです。
もちろん、想定されていようがいまいが、はみ出してしまう人はいるものですが、はみ出してしまうとかなり生きるのに苦労することになっていました。
このへんは頭で考えたルールと生物としての実体との乖離ってやつでしょう。

私は小学校で一度転校しました。4年生の夏でした。
転校した先が関西の学校だったので、言葉の違いに苦労したりもしたんですが、学校へ行きたくないと思ったことはありませんでした。特別楽しくもないし、嬉しいところでもなかったんですが、他にいるところがなかったんですね。
理由は忘れちゃいましたが、ある時猛烈に「お母さんなんか大嫌い」と思ったことがありまして、学校を休んだとしても家で親と顔を突き合わせていなくちゃならないので、学校へ行くほうがマシだと思っていたんじゃないかと思います。

その後、中学で転校したときも、やっぱり相当苦しい思いをしたのですが、それでも家にいるより学校へ行ってしまったほうがマシでした。
同じ居場所がないにしても、学校なら教室や部活などがあって、それなりに居場所があったんですね。
「虐待」と言えるようなことはなかったと思っているんですが、後に医者にかかったときに、いろいろ思い出してみると、ある種の精神的虐待があった、と言えなくもないなあと思うようになりました。(ほんと「虐待」って言葉が強いですね。実の親に向かってこの言葉を使うのは非常に抵抗があります。)

今でも思うんですけど、あの当時、私には「登校しない」という選択肢はなかったんですねえ。
漠然と感じる世間的な価値観、親のふだんからの私に対する態度、実際に学校へ行かなかった場合の状況などを考えると、本音を出して「学校へ行きたくないんだ」と表明することのリスクは多大なものがあったんです。
ですから、あえていうなら、今不登校という選択肢を選べるのは、家が居心地いいからかもしれません。どれだけ自分があからさまに不機嫌を表明していてもそのことを最終的には受容してもらえる。閉じこもっていられる自室があり、そこへの親の干渉を明確に拒否できる。にも関わらず衣食住に関する日常にはなんら差支えがない。

私なんて、親に向かって不機嫌を表明しようもんなら、罵倒しつくされました。
ずっと前に書いたこともありますが、「穀潰し」と罵られたものです。なんら家庭に寄与していないのに偉そうに文句を言うな、ということですね。
「文句があるならご飯食べなくてもいい」といって、食事抜きになったことだってあります。部屋に閉じこもろうもんなら、どんな目に合わされるかわからない、と思ってました。
だから、学校へ行っていた、という側面は確実にあるのです。

別にこのことが登校拒否の解決策だとは思ってませんよ。ただ、うちはこうだった、というだけの話。
でもね。そういう過去があると、冒頭に書いた記事のように「まずは受け止めてあげることが大事」と言われて、一面では「なるほど、そうだよね」と思うものの、心のどこかで「でもそれじゃあ社会に馴染めない子になっちゃうよ」と思ってしまうわけですよ。もしかしたら妬みかもしれませんけど。


今朝の「スッキリ!」で、ゴリラの赤ちゃんの人工哺育を紹介していました。
その中で印象に残ったのは、飼育員さんの態度でした。
赤ちゃんを少し離れたところにおいて、自分の方へ寄ってくるようにする、という訓練(?)をしていたとき。赤ちゃんがゆっくりゆっくりハイハイして、飼育員さんのところに来た時、すごく優しい声で「ああ、怖かったね、怖かったね。そうそう、そうやって登っておいで」と声をかけたのです。
さらに訓練が進んで、もっと離れた場所にいる飼育員さんのところへこさせようとしていたとき。赤ちゃんは今いる毛布から足を踏み出すことがなかなかできませんでした。コンクリートの床の上に毛布を敷いて、そこに座っていたのですが、その毛布からコンクリートの床へ足を踏み出すのに、すごく長い時間がかかりました。
それでも飼育員さんはじっと待っていて、赤ちゃんがたどり着いた時に抱きしめて褒めていました。
「自立を促す」ってどういうことなのかを教えられた気がしました。
ともすれば人間の親は、こういうとき、なかなかこっちへ来ない子どもを叱ったり、待てなかったり、怖くて泣いてしまった子を叱ったりしてしまいがちです。
そうやって突き放すことが自立へつながるような気がしてしまうんですね。
「ああ、怖かったね」と受け入れることが、甘やかしになるような気がしてしまうのです。

甘やかしだ、と感じてしまうのはもしかしたら、そうやって受け止めてもらったことのない人なのかもしれません。
少なくとも私は、あんなふうに受け止めてもらった記憶はありません。不安だったり、心細かったり、怖かったりしたときに、まるごとその感情を肯定してもらったことはありませんでした。だから、私はそれを否定しました。なかったことにしたんです。なかったことにすれば、不安も恐怖もなかったことになりますし、自分が受け入れてもらえなかったこともなかったことになりますから。
でも、本当は受け止めてほしかったんだなあ、と、子どもを持ってから気づきました。最初は自分がされたのと同じように拒絶していたんです。具体的にいうと、「そんなことで泣いちゃだめだよ」とか「怖くないに決まってる」とか「怖がるのがおかしい」という反応をしていたのです。でもそれだと子どもの感情が収まらないんですね。
で、いろいろ勉強して、「いったんはそのまま受け入れる」ということを知ってから、なるべくそうするようにしてみたんです。
そのせいなのかどうかはわかりませんが、子どもは、私が嫉妬するくらい自己肯定感のある人間になりました(ほんとのところはわかりませんけど)。たいていのトラブルはなんとかやり過ごしているし、基本的に楽天的で真面目です。親の私が受け止めたからといって、甘ったれたダメ人間にはなりませんでしたよ。
むしろ私にはできなかった「なんでも親に相談する。時に本音を話す」ということをラクラクやってのけるようになりました。私の方がオタオタしてしまうくらい。

自己肯定感というのは、最初にまず徹底的に誰かに肯定してもらわないと育たないんでしょうね。
それが「親」の大きな役目。この場合の「親」は生みの親でも育ての親でもいいんです。「親的」な立場の人ならいいのです。ここを勘違いして「産みの母親でないと親と言えない」なんて思ってしまうからいろいろ支障が出てくるのです。

人間とゴリラでは種族が違うし、飼育員という立場もあるから、わりと抵抗なくそういうことができるのかもしれません。
人間同士のことになると、とたんにややこしくなってしまうんですね。

もう一つ新聞記事で、「第三者提供の精子によって誕生した人のアイデンティティの問題」について知りました。
要するに「私はどこから来たの?」という根源的な問いです。
日本では非配偶者間人工授精などの人工的な妊娠による出生や、養子などの事実を隠す、という風潮があります。本人にとって重大な事実を、周囲が勝手に慮って隠してしまうんですね(かつてのがん告知もそうでした)。
でも、いつかは事実を知ることになる。そうすると、「それまで隠されていた」ということで大きなショックを受けるわけです。
記事では、AIDで生まれた方ご本人が、ルーツを懸命に探していると語っていました。
私はずっとそのことが気になっていました。
「生む権利」などといって、母体になる方の人の気持ちばかりが重要視されていますが、それで生まれた子どもはいったいどう感じるだろうか、と。
事実をありのままに打ち明け、その上で「それだけあなたが欲しかったのだ」と堂々と言えるならいいんですけど、たいていはその事実を封印しようとしますよね。子どもには説明できない、というんですけど、説明できないことで発生させられた方の気持ちを考えたことがあるんだろうかと。

そうやって、親の都合で生み出された子どももいれば、親の思い通りにならないから、と虐待される子どももいます。
その「親の思い通り」とは、世間的な通りの良さ、自分のプライドを満たす行為、自分の身代わりにしようとする思惑など、子ども自身の存在価値とは全然関係ないところにあります。
それは、「ゴリラの赤ちゃんがただ必死にハイハイして飼育員さんにしがみつくこと」そのものを喜ぶ姿勢とは対極にあるものです。

「命を大切にする」というのは、根源的な存在そのものを慈しむこと。
どんなあり方でも、どんなやり方でも、その個体の存在そのものを受け入れて、折り合っていくこと。
それが「命を大切にすること」なんじゃないだろうか、と思いました。

気に入らないから、相手は間違っているから、許せないから。
そんな理由で他人を排斥しようとする感情は、「命を大切にする」という命題からいちばん遠いところにあると思います。


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さあて。これだけ考えたんだから、これからは近所の子どもの泣きわめく声にもうちょっと寛容な気持ちになれるかな?(笑)