母恋旅烏 | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

なんでグーグル先生は予測変換に「母恋旅烏」なんつーのを提示してくるんでしょうね(笑) 面白すぎる。

今日は母の日。
善良な世間では、「大好きなお母さんに感謝の気持ちを贈ろう!」なんてことを言って商売したりしてますが。
商売関係なくても、「母の日」になるとふいに、母親への感謝の気持ちが湧いてきたり、沸かせなくちゃいけないと思ったりするようです。

「母の日」というくらいだから、目線は「子ども」の立場から。
「母」というのは子どもを持たないとなれない立場なんですな。
若干偏狭な心根の持ち主なら、「自分の腹を痛めて生んだ子どもじゃなきゃだめなのよ」ぐらいのことはいいそうですが、腹を痛めようが血の繋がりがなかろうが、自分より小さくて弱い存在を保護して育てることをしたらそれは立派な「母」でしょう。
逆の方向で考えると、いろんな事情や都合で生むことができないから「母」になれないと嘆き焦ってしまうということにもなりかねない、実は恐ろしい思想だったりもします。

そこんとこはちょっと深入りをさけて話を進めますが。
すべての人間には「母」がいます。生物学的に絶対「母」という役割の存在がある。そうでなければこの世に生まれ出ることができませんからね。
完全に試験官やら子宮ブースの中で人工的に発生し成長する人間、というのはいまだSFの世界にとどまっています。
とまれ、卵子と精子が受精してヒトになる、という発生過程を辿る以上、どんな人にも必ず母親が存在します。

つまり、「母」というのは常に子どもから規定される存在なわけです。
だから、感謝という行動も出てくるわけだし、切ないほどの思慕や、ねじれにねじれた感情なんかも生まれてきちゃうわけですね。

子どもを産むと、その人は自動的に「母親」になります。子に対する母という立場ですね。
子どもは常に母親から世話をしてもらう存在です。そうでなければ生存できないし、成長もできないから。それは子供側の事情であると同時に、子孫を残そうとする親側の事情でもあります。
次世代を生んだ、という時点で、親世代には次世代をきちんと育て上げる責任が生じます。そのために肉体は勝手に変化するわけで、そこには精神的側面はあまり関係ありません。気合で体脂肪の増加を止めたとか、乳汁の分泌を止めた、ホルモンの働きを変更させた、なんてことはありえないのです。
肉体はごく自然に次世代を育てる準備をし、目的を達するために変化します。
たいていの動物はその変化に自然に従って子育てをするわけですね。
しかし、人間には(ある意味)余分な機能が備わってしまった。
意識、精神、自意識、自我、などなど「私は~」と考えてしまう機能です。
繁殖期を迎えるまで、人は自分単体として生きています。男性は死ぬまで単体として生きていきますが、女性は途中で分離することがあります。子どもを生むというのは、自分から別の個体が分離していくということです。私が私だけではなくなってしまうのです。

子を生んだ時点で、名称としては「母」になるわけですが、肉体と違って精神はそう簡単に変容しません。確かに十月十日という時間をかけて徐々に変化するようにはなっていますが、肉体のように定型的変化を遂げるという保証はありません。
それはつまりどういうことかというと、気持ちが「母」になりきらない場合もありうる、ということなのです。

生涯変化しない男性は、それ故に幻想を抱いてしまうものなのかもしれませんが、出産をしただけで誰もが劇的変化を遂げるというわけではないのです。
だから、時々、なりそこねる個体も出てくる。
子どもは生んだけれども、いわゆる「母」としての自覚が持てなかったり、自分自身の精神的問題を解決してないために子どもどころではない人がいたりするわけです。

「世間」というやつは、各論が苦手なので、常に大雑把に一括りして物事を見たがります。
「子どもを生んだら誰でも即座に母親として完璧な行動がとれるはずだ。そうでないのはどこかおかしいし、間違っているのだ」と。
だから、嬰児遺棄とか、児童虐待などのニュースに触れると、「鬼母」などとレッテルを貼って大騒ぎするのでしょう。
あるいは、最近ですと、子どもの方から糾弾することもありますね。まだあまり世間的に認知はされてませんが、ぼちぼちと声を上げることが可能な状態になりつつあります。
「毒になる親」「こんな母親が子どもをだめにする」「母原病」などなど、うまく「母」になれない人を糾弾する意見が出てくるようになりました。

そもそも出発点が間違ってないかなあ、といつも思うんですね。
なぜ、子どもを生んだら即座に「優しい素晴らしいお母さん」に変身できると決め付けるんだろうと思うのです。そんな、仮面ライダーや戦隊ヒーローみたいに、簡単に変身なんかできませんよ。仮面ライダーや戦隊ヒーローは中身(精神)が変わるわけじゃなくて、戦闘能力がアップするだけですが、「母」に変身するのは、精神の壮大な変化が必要なんですよ。

と、まあこれは「母」側の都合。
子どもはそんな親の都合なんて関係ないものです。
子どもはとにかく成長しなくてはならない。
生まれたらすぐに呼吸し、乳を飲まなくてはなりません。胃袋が未発達なので一度に大量の乳を摂取することができないため、数時間置きに何度も飲まなければなりません。
排泄もコントロールできませんから、後始末もしてもらわなくてはなりません。
これを母親側から見ると、「3時間おきの授乳、排泄のたびにおむつの取り替えと洗浄、体温調節の世話をほぼ3ヶ月は休みなく(文字通り休みなしで)継続する」ということになります。
これは大変しんどい作業で、だからこそ大きくなった子どもは「おかあさんにいっぱい世話をしてもらった」と感謝するわけですが、言い方を変えれば「生んだ責任」でもあるのですから、子どもがさほど恩に着る必要も、ないと言えばないんです。少なくとも親はそう思う。(だからといって子どもがそう言ってしまってはだめなんですけどね)

「子ども」にとっては、母親は永遠です。
永遠に思慕の対象になれたら、とても幸せな親子関係。
でも時には、永遠に相容れないねじれた関係になってしまうこともあります。
子どもの母親に対する執着は本能的といえるほど強いものですので、例えば虐待を受けたとしてもどこかで解決を望んでいたり、親の改心や謝罪を期待したりしてしまいます。
時に親は子どもを見捨てることができますが、子どもが親を見切るのはものすごく難しくて大変なことなのです。どうしても、どうしても子どもは親を振り切ることはできません。怒りであったり、後悔であったりという形であっても、「親」特に「母親」に対する感情をなくすことはできないのです。

母親は、別の子どもを持つ、という選択肢を持っていますが、子は産みの母親を別に持つ、ということはできません。そこがたぶん、母と子で決定的に違うところだと思います。

ネット上でも、たくさんの「母の日ネタ」のニュースや動画を見かけました。
タイの保険会社のCMは、その中でも出色の出来でしたよ。
学校の授業で「ママ愛してる」という手紙を書いています。一人の子が画用紙に、裏返しの文字で書きます。先生が怪訝な表情で見ているのですが、その子は家に帰ってお母さんにその画用紙を差し出します。裏返しで。文字は裏側に反転して浮き上がっているのです。
このCMの動画を見て、思わず涙が出ました。
その子の、母親を思う切ないほどの気持ちが伝わってきて。
母親もきっとそれなりに子どもを愛しているのでしょう。でも、子どもが思う気持ちの方がずっと強くて大きいのです。
子どもは、痛々しいほど必死で、全身全霊で「母」を求めるものなんだなあ、とつくづく思いました。だからこそ、裏切られた時の反動がとてつもなく大きいのでしょう。

「母の日」というのはまっとうに母を愛せる幸せな子どものためにあるのだと思います。



かくいう私は、「母の日」に何かしたこともなく、また自分の子どもから何かされたことはないんですなあ。幼稚園や学校で強制的に描かされた絵はもらったことがありますけども。「母親」としての自分の至らなさをがつんとつきつけられる日でもありますし、日頃なんとなく表面的に、うやむやな感じで付き合っている母親への思いが表面化しそうで恐ろしい日でもあります(*v.v)。