「憧れ」とは手が届かないから憧れなのだ | 10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう

いやまさに、結論はタイトルどおりなんですが。



私にはけっこういろんな「憧れ」があるんだなということを、ふいに自覚したわけです。

な~んにも夢なんてないよ、とか、憧れなんて持ってないなあ、なんて思ってたんですが、日々の生活の中で「なんだよ、ちぇ」と不満に思うことっていうのは、裏を返せば「理想が裏切られる」という状態なんじゃなかろうかと。


たとえば、恋愛シーンにおいて。


ドラマや小説など(あるいはネットで見聞きする話)で、異性から告白される、というシチュエーションがありますよね。

「こんな告白をされた」とか「こんなふうに告白されたい」とか、そういったシチュエーションに対して、やっぱり、いいなあと思うわけですよ。

自分の人生を振り返ると、そんな劇的な告白なんてされたことないや、と寂しい思いにかられたりもします。一度でいいから、熱い告白とかされてみたかったなあ、と思うんですよ。


しかし、ですね。

本当の本当に、今まで一度も相手から告白されたことはなかったのか?と厳しく過去を審議してみますとね、ないわけじゃないんですよ。

こんな私にも若い時はありまして、それなりの「モテ期」ってやつもあったりしたんです。そういうときに、「そういえば」的な事例がなかったわけではない。


ではなぜ、私はそれを「告白された事例」として記憶の中でカウントしてないのか。


そこを自己分析してみたところ、どうやら私は、憧れが現実になることそのものが受け入れられない、という傾向があるようなんです。


恋愛における、いわゆる「背景にバラを背負ってる」ような状況には、大変大きな憧れがあります。いいなあ、そんなふうになってみたいなあと、強く憧れている。

でも、現実に自分がその状況にたったときに、どうにもしっくりこない、落ち着かない、不当である、というような感情におそわれます。自分がその手のドラマの主人公になることに強い違和感を持ってしまうんですね。

なので、現実にそういう状況に陥ると、笑ってごまかしたり、記憶から消したり、うやむやにしてしまったりする。


昔、ディスコが全盛だったころ、チークタイムという時間がありました。

激しくノリノリで踊っている時間の合間に、ゆったりしっとりしたバラードをかけて、相手と密着して踊る、というチークタイム。二人の感情がたかまって、非常にラブラブムードになれる瞬間なのです。他人様がやってるのをみると、いいなあと思うものです。あんなふうに情熱的に愛されたいわ、なんて思ったりする(笑)。

あるとき私は、当時ものすごく好きだった人に誘われました。チーク、踊ろうって。

恋愛ドラマの主人公になれる瞬間だったんですけど、私は激しく拒否してしまいました。とてもじゃないけど恥ずかしくてそんなことできない、って。彼は自分が否定されたんだと思って傷ついてしまいましたが、そうじゃないんです。自分がそういう憧れにシーンにいることそのものが我慢できなかった。


自意識過剰、とも言いますけどね(笑)


できないからこそ、憧れるんだなと、今になればわかります。



また、結婚生活についても、同じようなことがあります。

私はよく夫についてこんな不満を持ちます。

「私の内面に興味がない。会話がはずまない。家庭に関心がない」

具体的にいうと、たとえば、食事のとき。自分だけ先にさっさと食べてしまう。食卓での会話がない。子育てに積極的に関わってこない(自分の趣味を優先)。私が髪を切っても気づかない。何をしていたのか興味がない。話すことがない。


どこの家庭にもよくあるような不満ですわ。だから他人様に愚痴るとたいていは「うちだってそうよぉ。男なんてそんなもんなんだから」と言われておしまいです。それでいいんですけどね。

でも、こういう不満を持つということは、言い換えればそうじゃない夫がいいな、という理想を持っているからだと思うのです。

たまにいらっしゃいますよね。すごく気が合う夫婦で、しょっちゅういろんなこと話してる、とか。子育てにも積極的で、「家族を作るんだ」という意識がはっきりしている人、とか。口先だけじゃなくて、実際にそういう行動をとって、自覚的に家族を創り上げようとしている人とか。

レアケースだからこそニュースになったりするんでしょうけど、でもまあ、そういう人がいるんだということを知れば、「いいなあ」と思いますよね。

食事が家族団らんの時間で、いつもみんなで揃ってご飯を食べて、いろんなことを話して。お父さんは子供のことに関心を持っていて、ちゃんと関わろうとしている。


・・・・・なんか書いててものすごく空々しい気持ちになってきました。こんな人、こんな家庭、ほんとにあるんかいな。


まあ、単なる理想でもいいですわ。そういう理想がどこかにあるがゆえに、そうでない現実に苛立つわけですから。

で、現実はキビシイよなあ、と不貞腐れながら日々を送っているのであります。


が、しかし。ここでも私は考えました。

もし、本当に、自分が理想だと思うような家庭になったとしたら、どうする?と。

夫が常に私に関心を持っていて、あれこれおしゃべりしたがったり、食卓での家族団らんが現実化したとしたら……。


ちょっと耐えられないかも、と思いました。どうしていいかわからなくなりそう。

現実が殺伐とした状態であるからこそ、逆に安心して愚痴を言えるんじゃないかな。

夫が私に関心を持たない(=現実)からこそ、「関心を持ってくれない」と文句を言い、関心を持たれる状況に憧れる、という仕組み。


どこかで読んだんですけど、人は自分の恋愛モデルを両親から学ぶんだそうです。両親が仲睦まじく暮らしていると、それを見て自分の恋愛行動を形成する。

逆に不仲な両親だと愛情モデルが形成できないので、長じてからの自分の恋愛行動に欠陥が生じてしまうんだとか。


これを読んで、ハタと膝を打ちましたよ。

そういえば、私が育った家庭には、「和気藹々と食事をする場面」なんかなかったし、「子供に関心のある父親」もいませんでした。両親は、あからさまに喧嘩するということはありませんでしたが、かといって仲良くしている、という場面も見たことがなく。母親はたいてい不機嫌でしたし、父親は基本的には家にいませんでした。仕事ということで早朝に出勤し深夜に帰宅するという生活でしたから。


だからこそ、「絵に描いたような暖かな家庭」に憧れてしまうのですが、決してそれが実現しないようにもしてしまう。


恋愛においても、受身で「愛される」立場になりたいと思いつつも、実際にそうなりそうになると逃げ出してしまう、もしくは笑い飛ばして冗談にしてしまう、あるいは完全に拒否してしまう。自分にはそんな価値はないと思っているのもひとつの理由ですが、もうひとつは、そういう場合における行動モデルが自分の中にない、というのも理由だと思います。



「故郷は遠きにありて思うもの」と言います。

憧れも、遠きにありて思うものなんでしょうね。



参考文献:


愛着障害 子ども時代を引きずる人々 (光文社新書)/岡田 尊司
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