10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう


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      片山るんのページ



帰省とは、「親元を離れて暮らす人が年末年始やお盆などの長期休暇に故郷へ帰ること」というのが一般的な意味合いのようです。(ググったw)

昨今は、大学や就職などのタイミングで実家を出て、都会などで暮らす(そしてそこで結婚する)人が多くなったことで、「夫の実家へ行くこと」が問題視されるようになっているのではないかと思います。

それこそ昔は問答無用で「正月は一家揃って夫の実家へ帰省する」なんてことが行なわれており、そのたびに「夫の実家での嫁としてのふるまい」がどうだとか「姑の態度」がどうとかっていう恨み辛みが蓄積していったのでしょう。

令和になってやっと「セパレート帰省」という概念が浸透し始めてきました。妻が同行しないというパターンのようです。そもそも、妻の実家へは夫が同行しないこともよくあったわけで、要するに「夫の実家」へ行くか行かないかが問題だったみたいです。

 

こういうのって、どれくらい一般常識化しているものなんでしょうね。

Twitterでしょっちゅう見かける「夫の実家、夫の両親との抗争」って、そんなに当たり前にあるものなのでしょうか。あるものなんでしょうね。

民法は新しくされても、世間から「家父長制」「家制度」の概念はなかなか消えておらず、長男と結婚したらその親と同居するのが当然、だとか、夫の両親の介護は妻の義務、だとか、周囲のみならず女性本人もそう思い込んで苦しむ事例はたくさんあります。

「同居しなきゃいいじゃん」とか「帰省しなきゃいいじゃん」なんて言ってみても、「そんなことできるわけないじゃん」とはなから受け付けてもらえない。そうしておいて、辛い苦しいと嘆く。人間って不合理、不条理なことが好きなんですねえ。

 

結婚してからの話ではなく、まだ独身だったころ、なんなら学生のころから、長期休みの時に実家へ帰るのが苦痛でした。夏休みや年末年始、果ては春休みまで、なぜか長期の休みのときには実家へ帰らなくてはならないと学生の私は思い込んでいました。帰るのが当然だと、なぜか思い込んでいたんですね。そのくせ、実家へ帰るのはいつもほんのり苦痛でした。自覚しないようにはしていたんですが、帰らなくて済むものなら帰りたくないなとずっと思っていたことは確かです。理由は簡単。つまんないから。実家に行っても何もすることがありません。だってもう自分の生活基盤は別のところに移ってしまっていて、実家には何も残ってないのだから。

親も、帰ってこいとは言うものの、友好的なのは顔を見た初日だけ。二日目からは邪魔者扱いでした。だって生活がまるっきり違ってしまっていましたからね。親は自分の生活ペースを乱されてどんどんいらだちを深めていくし、私も好きなように行動できなくてフラストレーションが溜まる一方でした。でも「他人の家にお邪魔している」私のほうが立場が弱いので、文句を言うこともできなくて、母親のいらだちをただ受け止めるしかありませんでした。自室もなくなっていたし、とにかく居る場所がない。どこに座っていても邪魔だと言われましたし、ゴロゴロしていようものなら目の敵にされました。

あんなに邪魔者扱いするのになぜ帰るのが当然だと思っていたのでしょうね。今となっては謎でしかありません。

大学で家を出るまでも、家が自分の居場所だと思ったことはありませんでした。いつだって居候気分。申し訳なさをずっと感じていました。だから、県外の大学に合格して家を出ることができたときは本当に嬉しかったものです。やっとそこで自分の居場所を作ることができるようになっていたので、なおさら「実家に帰省すること」が負担になっていました。

 

でも、世間では実家へ帰ること、親の顔を見ることがとても幸せで嬉しいことだとされているんですね。子どもや孫が来ることを心待ちにし喜ぶ親の姿ですとか、実家でくつろぐと言える人の姿をニュースなどで見聞きすると、本当にそういうことがあるんだと思い知らされます。

ドラマを観ていると、そういう「親元を巣立った子どもが家に戻ることは良いことであり、親は戻ってほしいと願うものだ」という概念が前提になっている話がよくあります。

先日息子と一緒に観ていた「コントが始まる」というドラマもそうでした。

高校の同級生3人で結成したコントグループの話だったのですが、そのうちの二人は常に親から「戻ってこい」というプレッシャーをかけられていました。そして彼ら自身もそうすべきなのではないかと葛藤していたのです。

あれがほんとに不思議だったなあ。だって子どもといってももう30近いんですよ。なのに二言目には「いつ家に戻ってくるんだ」という。(実家を出てアパートに住んでいる設定でした)

家に戻してどうしようっていうんだろうと不思議でなりませんでしたよ。まだ小さい子どものように管理したいんだろうか。

一人は実家が酒屋を営んでいました。その跡継ぎ問題で悩んでいたんですが、それもまた不思議でした。父親は初めは酒屋を継いでほしいと思っていたのに、息子がコント芸人になったことでへそを曲げてしまったのか、10年経って芸人をやめるとなったときに、酒屋を継がせることを拒むのです。まあ結局継ぐんですけども、継ぎたがる息子と拒む父親のやりとりが本当に不思議でした。

二人ともとても「良い子」だったんですよね。「10年やって売れなかったらやめる」という親との約束を律儀に守ろうとしていました。これは「芸人のやめどき問題」とも関わるので一概には言えないことではありますが、なんでそこまで親との約束にこだわらなきゃいけないんだろうと、根本的なところで共感できないでいました。

 

ドラマに出てくる若者は、(そういう設定のドラマでないかぎり)だいたいは親と仲が良くて、しょっちゅう実家に顔を出しています。親との関係も良好だったりする。ドラマですから別にいいんですけど、なんだか当たり前のようにそういう設定が使われるんだなあと、時々思ったりします。

 

私は今年は正月に実家へ行きませんでした。去年も正月は行きませんでしたが、3月ごろに一度顔を出しにいきました。そしてその時、「たぶんもう二度と来ないだろう」と思ったんですね。

次は葬式かな、とも思いました。

私にとって実家は決して心安らげる場所ではなく、両親に会うことはいつもなにかしらの傷を残す。そのことが深く深く身に染みたのです。もうそろそろ自分を守ることを優先してもいいかなと思うんですよね。今までの恩はあるので縁を切ることはないと思いますが、近くにはいきたくないし、交流もしたくない。

むしろ、今の夫の実家を訪ねるほうが楽しかったりします。今年のお正月は義弟一家も揃って、みんなでわいわい話しながら過ごしました。理由は深掘りしませんが、明らかにこっちにいる方が楽しいのです。

 

夫が単身赴任先から家に戻るのは、自宅だから当然のことなんですが、家を出た息子もまだ帰省してきます。とはいえ、目的は友達に会うことなんですけどね。それが自然なことだと思いますが、いかんせん生活時間帯がまったく違うので、長居されるとちょっとしんどいことも事実です。いずれここには戻ってこなくなるだろうと思っているんですが、どうなんでしょうね。

 

実家に帰ったり両親に会うと安心する、落ち着く、と言える人は幸せです。

でもそれは、普遍の真理というわけでもない。そうじゃない人もいるということを、ネットを通じて知ることができたのはよかったと思っています。帰りたくないと思ってもおかしくないんだと知ることができたから。

 

人間誰しも、嫌いな人や苦手な人にわざわざ会いたいとは思わないものです。

それは、親だとか血縁関係だとかには関係ないことだと思います。

簡単に言えば、献血に行ってきたということ。

私はいつも400ml献血なので、半年に1回しかできない。

前回が去年の5月だったので、半年後の11月に行くつもりだったのだが、都合が合わずにいけなかった。

献血ルームに行けばいつでもできるんだけど、私の住む市には献血ルームがない。

献血車が巡回してくるのだ。で、私の家の近くにやってくる日が決まっている。だからその日に行けないとなると、また次の巡回を待つしかないのである。

今年に入ってからメールが来て、今日1月3日に近くに献血車が来ることがわかった。

新年早々だなあと思いつつも11月に行けなかったのでさっそく予約した。

そして今日、無事に献血を済ませてきたというわけ。

お正月だというのに、というか、お正月だからかもしれないが、予約枠が埋まっていたそうだ。

日本赤十字社の人も驚いていた。いつもは予約枠が埋まることはあんまりないと言っていた。

 

よく晴れて風の冷たい日だったけど、献血車の外には透明なビニールのカーテンがかかっていて、きちんと裾が押えられ、強力なストーブ(温風が吹き出すタイプ)が置かれていたので、思いのほか暖かかった。

採血台はいっぱいで、少し待ってから採血開始。

担当の人は針を刺すのが上手で、全く痛みもなく採血は終わった。

年齢的にあと数回しか献血できないので、あとしばらくは健康に気を付けてなんとか全うしたいものだ。

いつもは左腕で採血してもらうのだが、今日は前述のような理由で混んでいたので右腕にて採血。

私の腕の血管はとても良い子で、右でも左でもきれいに浮き上がる。

利き手だからどうかなと思ったけど、全然関係なかったね(笑)

 

加齢のせいなのか、ちょっと血圧が高くなっていた。といっても普通の数字。もともと低かったので、やっと一般的な数値になってきたということだ。

お正月に社会貢献ができて、良い年の始まりになったと思う。満足。

1日は「お正月!」って感じで、初日の出を見たり、初詣に行ったり、家族で集まったりとイベント感があるんだけど、明けて2日となると急にトーンダウンする感じがある。

まだお正月の内、松の内ではあるんだけど、なんだろうね、二番煎じみたいな、間が持てないような気持ちになってしまう。

明日になったらまた「お正月は今日までだね!」とせき立てられる雰囲気が出てくるんだけど、2日はねえ。なんか、スンと落ち着いてしまったような気配がある。

元日は分厚い新聞(ほぼ広告)が届くけど、2日は休刊日。

いつも2日の休刊日は朝読むものがなくて手持ち無沙汰になるので、今年は本紙以外をとっておいて、朝読んだりしてみた。でもそれもなんか、「一日遅れ」という手遅れ感がかすかに漂ってしまう。なんだろうねこれ。

 

ということで、朝からTwitterで見かけた、上田慎一郎監督の「恋する地球人」という映画を観た。Twitterに毎日投稿される3分ほどの短い動画が全30話。すでに投稿は終わってるので一気に観た。そして新年早々泣いた。

若年性認知症になってしまった映画監督の話なんだけど、その監督は高校生のころに映画を撮ろうとしてて、なぜか未完のまま終わってたと。それをあるきっかけでもう一度撮ろうということになっていくんだけど、認知症であるがゆえの物忘れや記憶の混濁によってちょっとミステリアスな展開になっていた。

高校生の若くてちょっと未熟な人間関係や、そこから長い時を経てもう一度関係を繋ぎ直していく様子、不規則によみがえる記憶、周囲の人たちの優しい関わり方が、3分ほどの短い映像に丁寧に描かれていて、それが30話つながったときに最後に温かい気持ちにさせてくれる。

あの主人公は周りから愛されていたんだなあ。

戻らない若い日々が映像の力でよみがえり、そして一度は離れてしまった気持ちがまたつながっていく。

スマホで観られる映画、という形式は、まるで連載小説を読むような感覚だった。

公開されているのは知っていたんだけど、私は連載小説を読むのが苦手なので(待っていられないから)、今回まとめて視聴することができてほんとによかった。

新年からいいものを見せてもらってありがたいことである。

 

今日はよく晴れて日差しがきらめいている。でも気温が低いので、その日差しもちょっと凍っているように見える。こんな日は家の中でぬくぬく過ごすのがよさそうだ。

長いと思っていた年末年始休暇もあと少しで終わる。

そしたらまた、愛おしい日常の始まりである。