今日は突然の夏日らしい。
4月は空も落ち着かないんだね。
そういうことを考えているからだろうけど、近ごろよく「人生後悔しないためには、本当にやりたいことをやらないといけないよ」という言葉が耳に入ってくる。
今週から始まった「月夜行路」というドラマでも、まさにそういうところから話が始まっている。
奇しくも自分が書いた「いくつになっても夢を見る」という脚本も、自分のやりたいことから目を背けて生きてきた人が主人公で、相手役に、「やりたいことをやりなさいよ」と発破をかけられる。
稽古するうちに自覚したのだが、これはそのまま自分のことなのだっだ。
立ち止まりうろうろしている主人公は現実の私。発破をかけているのが理想の私。なんだかなあと思ってしまう。
「爆弾」の続編である「法廷占拠」でスズキタゴサクが言う。
「私の命、私の人生は私だけのものだ」と。
彼は自分をクズだと卑下してみせるけど、それの何がいけないんです?と開き直る。
この二作で私はどうしようもなくタゴサクに共感してしまう。確かにそうだよなと思ってしまうのだ。
等々力や類家が歯を食いしばって現実にとどまろうとする姿に圧倒的な憧れは抱く。等々力は「それでも俺はそれを不幸せだとは思わないよ」と言うし、類家も「俺は絶望からも綺麗事からも逃げない」という。その、ギリギリ踏みとどまろうとする意思は何かしらの希望だと思う。
私は別に反社会的なことがしたいわけではないので、タゴサクに共感しても負の方向に向かいたいとは思わない。
ただ、自分のやりたいことをやろうと考えるときに、なぜかいつもブレーキがかかる、もしくは自らかけてしまうのはなぜなんだろうと思うのだ。
生まれてから半世紀すぎたあたりで「もうこれからは、やりたいことをやる」とわざわざ宣言したのに、そしてそれなりにやってるつもりなのに、なぜかスムーズでなない感じがしている。アクセルとブレーキを同時に踏んでいるような感じ。
台本を書いてみて、いつものパターンだなと思った時に、あ、私はいまだに誰かの許可を求めてるのか、と思い当たった。
自分じゃない誰かにOK を出してもらいたい。進む道に太鼓判を押してもらいたい。やっていいよ、生きてていいよと、誰かに認めてもらいたいと思っているのだ。
それって、子供の発想じゃないか。
親の許可、親に認めてもらって見守ってもらってる状態だ。
とうてい、自分の人生を自分の責任で生きているとはいえない。
だから、何をしてもすっきりしない、落ち着かない。「これ、やってもいいんですかね?」と常に誰かにおうかがいをたてている。びくびくしている。
本当にやりたいことをやるためには、自分の命は、人生は自分だけのものだ、とちゃんと腹をくくらないといけない。
この覚悟がなかなか決まらないんだろうなあ、私は。
だからタゴサクの言葉に心が揺れるんだろう。
さて。
私が本当にやりたいことってなんだろう。
とりあえず、ちょっとでも気持ちが動いたらやってみることかな。
つべこべ理由をつけずに、とりあえずやってみる。
そういえば芸人の渡辺銀次さんもそんなようなことを言ってたなあ。
今、この瞬間を目一杯楽しむ。味わう。
内在化してしまった他人の言葉に耳を貸さずにね。