10月の蝉

10月の蝉

取り残されても、どこにも届かなくても、最後まで蝉らしく鳴き続けよう


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      片山るんのページ



今週末、いよいよ「SAVE」静岡公演が開幕します。場所は清水区にあるマリナートという施設。小ホールながら、とても音がよく響くホールです。

なんだか、なゆたで公演したのがはるか昔のことのように思えるなあ(笑)

マリナートの舞台に立つのは初めてです。(なゆたも、正式な公演として出るのは初めてだったけど) 観客席に座ったことは何度かあって、一度はあの舞台に立ってみたいなあと思っていたので、大変嬉しいと思っています。たとえ一瞬だとしてもね。

 

2年前の8月の終わりに、夏の思い出総括編を書いてて、それが過去記事としてあがってきていました。

そうか、「飛龍大戦」はもう2年も前のことなのか。

年を取ると時間の流れがうまく実感できなくなるんですね。

濃い思い出はすぐ近くにあるような気がしてしまう。

2022年は、夏に「本能寺が変。」の上演があって、初めてのモノローグ公演があって、「飛龍大戦」があって。コロナ禍がちょっと落ち着いてきたあたりで、警戒しつつも活動が復活し始めたころでした。「飛龍大戦」の時もかなりたくさん小道具作ったっけ。このときは武器ばっかりでしたけどね(笑)

2年という時間が遠いか近いか、もうわからなくなってます。遠いといえば遠いし、ついこの間といえばついこの間。年寄りは環境の変化が少ないから「ついこの間」なんて思っちゃうんでしょうね。0歳が2歳になることを考えたら2年って長いですわ。

出演した作品を思い出そうとするといつも記憶が混乱するんですよね。あれに出たのはいつだっけ、これに出たのはいつだった?って毎回思います。(だから年表を書いてるw)

やめてしまったこと、振り捨ててきたことはどんどん記憶から消えていきます。私は、切ったらすっぱり忘れてしまうタイプなんですよね。(関係を)切るまではかなりぐずぐず言うし、執着したり迷ったりするんですけど、いったん切ると決めたら、そして切ったらもうあとは一切関心がなくなってしまうようです。まあ、それぐらい我慢を重ねてたとも言えるんですけども。

 

すでにちらほらと来年の話が見え隠れしはじめていますが、2024年はまだまだこれから。

下半期、もりだくさんでお送りしていくと思います。

声をかけていただいていた件は正式なオファーとなりまして、いずれ情報公開されたあかつきにはまた告知したいと思っています。これは私にとっては非常に名誉のあるオファーなんですよね。これだけでひとつ、自信を持っていいんだなと思えることなのであります。

 

今朝は、風の中に微かに秋の気配を感じました。日中はまだまだ暑さが続きそうですが、着実に季節は進んでいるようです。

映画でもテレビドラマでも舞台でもそうなんだけど、ある役がすごくいいなと思ったとき、それはその「役」をいいと思ったのか、その役を演じている役者がいいと思ったのかがわからなくなる。

 

「ロンバケ」を観て木村拓哉のファンになった、と思ったり、「SP」を観て岡田准一のファンになった、と思っていた。だから他の作品も追いかけたし、その人に関するいろんな情報を集めたりした。でもあるときふと、なんか違うなと思ったんだ。

あの作品の時はすごくいいと思ったのに、この作品だとそれほどいいと思えない、なんてことが続いた。バラエティー番組なんかで、演技していないところを見て「あれ?」と思うこともあった。なんでだろうファンのはずなのに、と思っていたんだけど、やがて気がついた。

私が好きだったのは「その人がその役を演じている状態」だったんだなということに。

 

当然のことだけど、私は個人的にはその役者さんのことは存じ上げない。だからその人が演じてない時にはどういう人なのかということは知らないわけだ。

知っているのは、その人がその身体性を持って演じていた役だけ。

ということは、私が好きなのは、正確に言えば「瀬名を演じていた木村拓哉」であり、「井上薫を演じていた岡田准一」というわけだ。

 

役とそれを演じる役者の関係は、時に密接に絡まり合う。

本来なら「役」は役として独自に存在していて、誰が演じてもいい。でも、ある一人の人間がその人の個性でもって演じることで、その役に特別の意味が生まれることがある。そういうのを「はまり役」というのだろう。

人間ってほんとに複雑な存在なのだなと思う。そこにその人がいるというだけで、多種多様な情報が伝わってくるのだ。外見もそうだし、声や表情、たたずまい、動き方など、膨大な量の情報が伝わってくる。それが二次元のアニメと実写の差になるのだろう。

コミックやアニメを実写化したときに感じるちょっとした違和感は、実在の人間が醸し出す多様な情報から生まれるのだと思う。

 

こんなことを考えたのは、先日観た劇団イン・ノート「海賊の時間2024」で、パイラーテース船長が非常に印象深かったからだ。演じた浦野朋也さんの身体性があったからこそだと思うのだが、最初はわりと頼りない感じだった。あっさり会議の議長役を副船長に譲り、みんながあーだこーだと話している間ほとんど口を挟まずに聞いていた。ほんとに船長なのかしらと思ってしまうほど影が薄い状態だった。だからこそ、ラストシーンの彼の行動は驚きだった。

いや、驚きとも違うな、軽く胸を突かれる感じだった。

他の人の感想で、「たぶん彼は最初からああすることを決めていたんだろう」というのを見かけて、すとんと腑に落ちた。そうだ、だから迷いがなかったのかと。あれだけさんざん、向こうの船に行ったら酷い目に遭うと話していたのに、そんなにきっぱりと、あっさりと自分が行ってしまうのかと。その潔さが決して押しつけがましくなくて、冷静に現実を見つめている感じが、浦野さんの容姿にとてもふさわしい感じがして、よりいっそう「船長」としての覚悟やメンバーに対する愛情を感じた。

これって「パイラーテース船長」という役がいいのか、演じた役者さんがいいのか、どっちなんだろうといつものように考えてしまったのだが、そうじゃないんだな。彼が演じたから「船長」がいいと思ったのだ。

 

 

だからなんだという話ではあるんだけど。

役者(人間)が演じるのだから、そりゃあ人によっていろんな表現になるよね。

同じ役でも違う人が演じると全然別の人に見える。同じ筋書きなのに、違う物語になってしまうことすらある。ダブルキャストはそういうことをあえて楽しむものなのかもしれないな。私はあんまり好きじゃないけど。

 

それにしてもあの船長はよかった。哀愁があったし、なんていうかなあ「仕方のない現実に向かって、シニカルに笑ってみせる」みたいな美学を感じた。そういうの好きなんだよな。

 

8月があと2週間しかないなんて、と今さらのように驚く。

今週末は、Kogitsune project「SAVE2024」の静岡公演ではないか。

なんだか現実味がない。

8月の初めに、浜北なゆたで初日の幕が開き、なんだかんだトラブルがありつつも無事終演した。そこから3週間空いたことで、すっかり気持ちが変わってしまっている。

今回の参加は、メインが黒子(道具運び)で、ワンシーンだけアンサンブルとして舞台に出てはいるんだが、照明の輪から外れているので客席からはほぼ見えない。怒鳴っているので声は聞こえていると思う。意味のあることを喋っているので、ちゃんと届くように意識はしているものの、実はさほど演技は要求されていなくて、「とにかくテンポよくセリフを言ってくれ」というオーダーが出ている。そういう場面を作り上げる一要素としての存在なのである。

それに関してはちゃんと責任を果たそうと思ってるけど、正直モチベーションとしてはなかなか上げづらいものがあるのも確かだ。しかも、すでに1回公演が終わってるし。私の中では一区切りついてしまっているようなのだ。

メインキャストの人たちは最後の追い込みに入っているようで、大変だなあと思いつつ、ちょっとうらやましかったりもする。

 

私が観る芝居は、芸能人や有名人が出演するような種類のものではない。なんでだかわからないけど、そういうのは住む世界が違うと思ってしまって手が出ない。

ニュースになるような舞台は、いいなあすごいなあと思っても、自分が観に行けるとはどうしても思えないのだ。勝手に思ってるだけなんだが。

だから、「演劇ってなんだろうな」というようなことを考えるとき、プロでやってる人たちのことと、身近のアマチュア演劇やまだプロまで行ってない段階の劇団の人たちのことは分けて考えてしまう。

ほんとは分ける必要はないのかもしれないんだけど、それで飯食ってる人たちの方法論や技術、モチベーションとかは、アマチュア演劇やってる人にとっては負荷が大きすぎるような気がして。

Twitterでもよく演技についてのアドバイスが流れてくるけど、それは主にプロを目指す人や、プロで活動し始めた人向けのものが多い。

追求し始めたらきりがないのだ。演技とか演劇とかって。そして、アマチュア演劇の場合、どこまで追求すればいいんだろうといつも思ってしまう。

クオリティーがちょっと低いなあと思っても、趣味で楽しんでいるのだからこれでいいのだ、と言われたら引き下がるしかない。そもそもクオリティーなんて、客観的な基準がないんだから、単に「not for me」なだけかもしれないのだ。

 

もっと気楽に演劇を楽しみましょう、という活動が増えてきた。難しく考えず、とにかく声を出して、体を動かして、ちょっと「自分じゃない誰か」になってみましょうよ、と誘う。

それが演劇の第一歩だとは思うんだけど、それが物足りなくなってくることもあって。

だからといって、プロを目指せるほどの克己心もなく、覚悟も根性もないので、結局中途半端な気持ちのままになってしまう。

自分ができることとできないことを冷静に見極めて、できないことはできてる人たちを見て満足すればいいのかもしれないな。好きなジャンルの好きな芝居を観ることが大事。

 

9月になったら、たぶんまだ台本を抱えて稽古に励む日々がやってくる。

とりあえずセリフを覚えるのは楽しいし、世界を作り上げていくのも楽しい。それだけは確かなんだよな。

でも、演劇ってやっぱりよくわかんないや。