美術に付いての意味が,昔中学時代美術の授業中に何だか違う気がしていた.これでは美術の意味が解らないのではないかと思い,教師に思はず質問してしまった.

何と質問したかといえば「美術に付いての意味が違うんじゃないでしょうか」と.そして継いで言葉を続けようとしたら,「お前の美術論の話なんか聞きたくない.」「これは俺の時間だ.だから勝手にやるんだ」という事を言い取り付く島もなかった.此れが教師かと随分酷い態度で話が進められず相談にも為らないという.

私の話したかった事はといえば「美」と「術」の関係に付いてだったというのに.増してや「論」の付くものの話しなど語るべくもないのに.

中断

この言葉を聞いた時からこの教師は駄目だなという評価が私の中で截ったので学ぶものは極小でしかないなとなった.詰まりは教師としての了見を満たしていないということだ.

 
 その後に翌週に近寄ってきて,美術に付いて意味が違うとはどういう意味だと急に話して来たので,内心話す気も無かったが,先週の言葉の継ぐ話をした.美と術に付いての関係で,美術は美を探す事を行為をして見つけるものが美術じゃないのですかと.

直ぐに理解しなかったので,各々にある美というモノを見つける術を知るものじゃないのですかと問うた.しかし,教師はそれは違う,美を表現する術を学ぶものが美術であると.

私は自身の理解が間違って居た様ですねと素直に認めたが,前述した様に彼への評価は既に截っているのでどう判断したものかと言うのが正直な気持ちだった.

結論は市立中学校は教師の質程度が悪いなという所か.美術教師を見て此れかと確信し思ったものな.

随分前から何故多くの仲の良かった小学校時代の友人達が私立中学校に受験してまで行きたがるのかと.そのことが不思議だったが納得感を覚えたものな.

結局その後も私の作品は余りにも上手かったのか,私自身巧く行ったと思ったものでさえ認められず,本当に合わない教師だったな.しっかりと出しても認められないならどうしょうもないやと完全にやる気を失った科目だったし.
 教育に付いて戦前の一部の教育は遅れていなかった,寧ろ進んでいたんだなと言うことが確信を持ててきた。口伝で話されていたことは現代に於いてどの程度通用するモノなのか統合出来ず保留していた。

そして,此れを統合するにはどうすれば良いのだろうかと長年に亘って模索していたが,その一つの階段が哲学を順で(「を」と「で」,の接続詞での両方の意味の重要性か)追って辿る事だったとはな。けれども哲学書を初めて手に取った時に,何でそうなるの?っていうのがまるっきり解らなかったからな。

この時に感じたのが哲学に付いて文章は何か別のモノを観ているというのがそこで思ったところだったんだけどそれが正に数学だったんだものな。けれどソレをそうとは見ない人達も居る訳で,それが哲学教授だったという。

故に混乱していたのだが,その時の教授とのやり取りを載せても意味はないだろう。

そこで前述した「何か別のものを観ている」と言う事そのものを観るというのが哲学で連なっていくという。そこでの感じる事によるという意味の深さを知る事になるとはなという所が落としどころか。
 思索の説明を求めて文章を追っていると,同時並行して私自身が世界から求められていると言う事を感じる。実際の自然現象に自然の動物。


今迄来たことが無いのに,大きい烏が目の前で私を暫くジッと観ている。その事が生じたのはクリスタルパレスの事を思い出して暫くの時であった。


記憶の奥に眠っている,意識化されていない,どういう意味があるか系統的な意味を持たない,何に付いての固有名詞や人名詞の事か。


西部邁も西部ゼミナールの番組で知りたがっていた様子は記憶しているが,あの言葉は私への言葉だったのだろうか。実際に祖父の兄弟で家長であった伯父から聞かされたのは私だけだったという話だから家の話は私だけだろうが,その当時を知る人たちは当然知っているだろうけど,未だに何も音沙汰が無いという事はどういう事なのだろうか。


祖父の子供の長男詰まりは父の兄弟で長兄は何時か来る筈だからその時は説明してあげるんだよと,子供たちに詰まりは自分の子や私達に,独特な引き笑いをしながら風呂場で語って居たことがあり,それは祖父が話して居たことだったらしい。最近では伯母や本家の伯父さんからも知りたいと言われている。

更には教授からもそれを文章にした方が良いと言われて,文章化したものを周りから求められている。そう言えば家長であった伯父も私に「君が文章にしてくれよ」と言ったのだった。

その言葉は私が文章にして残して読みたいですねと言った後継いだ言葉だった。伯父は「私はもう疲れた」「君がやってくれ」と他にも多く語ったが印象的な言葉を発した。


 私は何時か「誰か」が来る筈だからその人に任せればイイやと思っていたがそうでもないのかな。その誰かを待ち続けて80年位に為るから誰も来ないという事に為ってしまうのか。
 幾何学を証明を込みで学んでいくと中々に頭が整理されてくる。感覚が整理されるという方が正しいかもしれないが、体躯に合致するというような。

実際にそれを学習するときに舌にモノが詰まっていたという感覚もあったし歯と耳に同時に感じるモノもあったという。歯でも前歯と奥歯の感覚もあて不思議。

という文章を私自身が思い出して書いた通りでの体系立てた学問での感覚を前進させるものなのだろう。さらに言えばそれが肉体へと繋がる要素として存在し,それが現象となるとは驚きだった。

漸く何だか考えが固まり初め纏められそうだと思い始めた。此れに加えて日本文化の歴史と形とGHQの操作された要素をを纏め上げるという感じなんだけどな。

こういう文章弁証法というのかな。対立する二つの命題ではないから違うかな。


それに継いで「進まないは対話文。表情もなにも見えないし説明も不十分で曖昧な表現も多い上にどういう性格の人かも分からないから言葉の会意も判断つかない。読みたく無くなってくる。」という言葉が正に前述の文章にある通りの感覚としての形の片鱗という感じか。

会意という感じの言葉通りの形という内面を反映させる存在が把握できない者同士を把握しようとする試みという所か。ソレが把握できる存在が肉体であるか。

箍に寄ってその内面世界を表現する存在である肉体。肉体という名の表現された器か。

身体の成り立ちや仕組みを観ても正に器だものなぁ~
 改めて観ても灰と幻想のグリムガルは自分の過去に在った事が題材にされている気がして為らない。中村亮介という名前もそうだし,ランタが話し合う場面で話した内容も正にな気がするし,レンジの場面での感じでも正にな感じがする。

それに加えて物語を通した全体の印象も同姓同名の人の印象な気もする。ランタの見方の集団行動の話は正にそうだと思う話し合って合わせようと思って出来るものではなく自然と出来て行くもので察するものだと思うし,察した結果行動しその後に,こういう意図だっただろうというなら解るという感じか。

真直ぐ見ると本当に将棋みたいな事だよな。

改めて物語を観てしまうと矢張り自分だったら,素早い曲刀を上の中位に極めた上でと狩人の長射程と偵察で最後に魔法修練かなーと思ってしまうな。昔のゲームの時にドラクエⅤかⅥかで僧侶が直ぐに死ぬから編成で外して遣っていた事もあったし薬草等の道具満載で(微笑)

こういう作品を観ているとどんな風に攻略するかなーと想像してしまうよな。