久し振りにブログを書きたく成った。ということは頭に混乱している部分があるということなのだろう。xでは済まない次元の高い高度な日本語なのにも関わらずで、短文では済まないし済ませられない程のという。

 

 書きたいことソレは時間認識についてことだった。時間を認識するには単に真面にみれば済むのだと思っていたけれど、実は層では無かったんだなということを漸くというか認識し始めたということか。一般的な者にとっての時間認識というか、時間について、私の性質ではとても認識するのに苦労する性質のADHD性質が関係しているということは把握しているが、その中でその一般の認識を把握するのに、時間について普通の感覚を持っていない私にとって、その一般的な時間を認識するのに時間が掛かっているということか。

 

 そして把握するには空間に存在する時間の状態を認識しなければ為らないけれど、その空間の時間を認識するには先に時間を認識してからでないと認識できないという、何とも逆説的というかパラドックス的なことが起こるということか。

 

 それから、その起こりうる時間を先にということは予め先に時間線を把握することは詰まり時間線を複数把握して置くことか。

 

それから、その時間線は次の細かい数の瞬間には幾つも更に生じているとなるか。

 

 だから昔に共感覚で時間が見えた場面で極小からの次の所で膨大なモノを感じたのか。数々の不思議なモノが見えたんだよな。ソレが普通の一般の人と時間についての認識が違うという所なんだけど、だから一般の認識についてどう考えるのが普通なのかというのが混乱するということで、フッサールの時間とヤスパースについてが私には必要ということか。

 

 ヤスパースも昔に本家で話されていたことだものな。大伯父さんは解っていたということだものな。

 

 

 語学学習を妨げていたものは何だろうか。

 

改めて思い返してみると単語は直ぐに憶えられるし、文自体もそれほど難しいとも思えないのに。

 

そうかそうか、文自体はそうでもないからこその日本語対応なのかもしれないか。

 

確かに日本語では普通に表現される文書が英語だと何故か表現できないということが屡々生じることが理解できなかった。

 

そうかそうか、此れが次元が低い言語の英語という特性という奴か。

 

その上で英語の性質に合わせて表現しなければならないということか。しかもその表現が乏しいアルファベット言葉でと。

 

そうか、だから一般日本人が英語の長文になると、所謂揺らぎという現象が頻繁に起こるのか。

 

それは英語のネイティブ層でも一定の範囲で起きることだしな。そらそうか、隠喩に隠喩を重ねていけばそりゃ認識同一化が近い内に重ねないと難しくなるのは当然か。

現実世界の空間と時間と運動を書いて私の認識の中で3つの内の時間と運動に付いて特に把握しきれていないということが哲学書を読み進めて行く内に感じることができる。

本家の伯父さんから、先代の家長から頼まれたことや今の本家にいる伯父がから頼まれたことを何とか文章にしたいが、どういう風に書き上げるかは矢張り自身が哲学書を一通り読んで理解する必要が在るのかもしれない。

さらに言えば兵法書全般も読み通す必要も在るのかもしれない。最低でも六稲と三略を。
 西部邁のゼミナールという番組が以前にあり、そこで社会の運動が止まっているという話があった。

 (校正)その時にその運動について調べたが、それらしい人がいなかったという話があり、その時に思はず顔を伏せてしまった事があった。

 正にその話の内容の人物というのが私の祖父に中る人だからだ。

その時に、(追記16)(反応として)何故顔を伏せてしまったんだろうと後から思ったのだが、周知されることについて思ってもみなかったということなのだろうか?

 今思うとその時に何か西部邁に連絡なり取ればよかったのだろうかとも思うが、取る手段が想像がつかなかったが、インターネットで調べて連絡しても良かったのかなとも思う。

しかし、私は当時(状態)は精神の(か)頭のと言っても良いが混乱状態であったので、纏めては話せない状態であったのでどうしようも無かったのかなとも思う。

その混乱状態は長岡亮介の「数学の2つの心」の本でその切掛けとはなり、「数学の認知科学」「記号論理学」がその手助けとなり鎮静化に向かいつつある(追記)が、今だにそのことに付いて形に為っていない。

いま必死に、形にしようとはしているが。

そのことを形にすることに付いて実行することその理由は、伯父さんとの約束でもあるから。

亡くなってしまっているけれども、私は人の死はその人を知る人物がこの世に一人もいなく成った時が本当の死ではないかと思っているから。

何処かで、人はこの世に何か情報を残すことを運命付けられた存在だと聞いたことがあるがその片鱗なのかもしれない。

そして、葬送のフリーレンでも語られている亡くなった人のことを想うこと。それが人間という存在だと。あの言葉にはアニメではあるけどグッとくるモノがあった。

 話は戻り、けれど何と言っても、私が中学校に入る前の話で、初めは囲炉裏側で話し始めた所から始まる家長との話だから。

 その家長は明治時代半の頃に生まれて、明治維新の残り香で空気感みたいなものも何となく解る世代だという。
 下の文章で安保条約を持ち出されちゃったら,もうお終いだな。何故かというと,統治行為論を執っているからであり,自由裁量権を執ろうにも明確に無効以外はその手の判断はしないという事は述べている。
 
更に言えば,形式上は有罪だが,実質的を採り無罪をすることで,自由裁量権はないことを示している。
 そして日本国は形式上は独立したことに為っているが,実質上は独立していない。

 故に,日本国憲法は形式に拘っている筈で,更に判例主義も取っているので変わりようもないと言う訳だ。

結果は全て安保条約に帰結する訳だだがそのことを言えという事だったのかな。日本国憲法は全て噓っ八であると。



1.説明する制定憲法の平和主義に関係するものは主権回復していない占領下制定下に大日本帝国憲法改正とされ成立したとし、平和主義を謳っている。(井上秀典「持続可能な社会を考える 法律学入門」2019年第一版)制定憲法で平和主義に関する項目としては第9条文の解釈が問題になるが「戦争の条約上の定義はない」ので、一項の戦争放棄解釈である「国際紛争を解決する手段」規定が問題となり国際紛争を解釈することになる。その国際紛争解釈には戦力について規定する必要があり,それが二項の戦力不保持解釈であり規定は戦力とは政府解釈によると「自衛のために必要な最低限度の実力」は戦力に当たらないとするものである。この様に条約上定義がない戦争放棄解釈は「国家の政策の手段としての戦争と同じ意味で具体的には侵略戦争を意味する」としている。
 制定憲法の戦争放棄解釈には二つの立場があり、9条で一つ目の放棄は侵略戦争となり自衛戦争は放棄されていないと解され、二つ目は凡そ戦争は全て国際紛争解決手段とするとしたもので、自衛戦争全ての戦争が放棄と解し説く。(芦部信喜著者 高橋和之 補訂 憲法 第八版2023年)憲法9条二項には「前項の目的を達するため」があり,二項は無かった追加規定によって解釈幅が拡大余地を生み、9条が幅解釈によって曖昧になる。
 そこで憲法の解釈に最高裁判所判例の砂川事件昭和34年12月16日や恵庭事件昭和42年3月29日に言及する必要が出てくる。
 砂川事件事案の概要は米軍基地内に入ったとし,「日本国とアメリカ合衆国との間の相互効力及び安全保障条約」6条に基づく違反で起訴された事件である。判旨によると安全保障条約は主権国存立基礎に関係をもつ高度の政治性を有し,法的判断は締結した内閣と承認した国会の政治的や自由裁量的判断と表裏をなすとあり,法的判断は司法裁判所の審査には原則なじまない性質のもので,明白に違憲無効でない限り範囲外のものであり,終局的には主権を有する国民の政治的判断に委ねられるべきと解し相当するとあり,統治行為論をとる。
 恵庭事件事案の概要は陸上自衛隊演習場通信回線が近隣農家によって切断され,自衛隊法121条の「その他の防衛の用に供する物」に該当するかどうか争う事件である。判旨によると本件通信線が重要な意義を有するか否か、物的組織一環を構成する枢要性と評価できるか否か、規模や構造等で深刻な影響が齎されるか否か、同種物件による代替を図ることが容易ではないか否か、これらの点に照らすと実質的疑問が存し、前記例示物件と類似性有無に関して実質的疑問がある理由の場合には罪刑法定主義原則に基き消極に解し該当しないものが相当とした。(井上秀典「持続可能な社会を考える 法律学入門」2019年第一版)罪刑法定主義とは罪を予め示して置きその上で罪に問うものでありその上で判断することである。
 問題説明として、自衛隊や駐留米軍と憲法9条の関係に問われたのは統治行為論であり、それは判例通り裁判所の法令審査権の限界とするものに、国家機関の行為のうち極めて高度の政治性を有するものには、明白に憲法無効でない限り審査の対象とならないとする理論のことであり,判断としても罪刑法定主義を執り,問わないという裁定であり同種の性質が現れる。
 考察説明として、自由裁量論と統治行為論を両方含むが、原則として前述する説明通り回避する統治行為論をとり、それには裁判所の法令審査権の限界とすることから憲法判断を回避し、該当しない被告人は前述する罪刑法定主義からも無罪とし、憲法判断を回避した。これを憲法判断回避原則というが、何れも回避手段がある場合にはその選択肢を採ることである。
 そこで憲法9条の一項の目的と二項の手段が関係し、詰まり目的と手段のみで戦力規定を問うということである。一つめの目的としては自衛権とは急迫不正の侵害に対し反撃ができる国家の基本的権利で個別的自衛権と集団的自衛権に分かれる。として,二つめの目的としては集団的自衛権とは自国と連帯関係にある他国が攻撃された場合に、自国利益侵害とみなし攻撃する権利である。(井上秀典「持続可能な社会を考える 法律学入門」2019年第一版)とした。そして手段としては「政府の従来の解釈は集団的自衛権の権利は有するが行使はできないとするものであった」とした。
 しかし、近年の動向は国際情勢変化により2014年平成26年7月に憲法解釈変更され集団的自衛権の行使が可能とし、目的に事態対処法制で「存立危機事態」で「新三要件」によって,手段として「平和安全法制の構成」が根拠とした。それが平和安全法制整備法であり「事態対処によって集団的自衛権行使が可能となり,改正重要影響事態法に国際平和支援法に改正PKO協力法に改正自衛隊法と続く。(井上秀典「持続可能な社会を考える 法律学入門」2019年第一版)考察に,前述の統治行為論をとる通り,手段として平和安全法制構成から緊急事態としての武力攻撃事態法が平成十五年六月十三日法律七十九号が制定され内容の示す通り,内閣が対処方針を定めて国会の承認を得る為の手続と組織が定められている(日本国憲法 第八版 芦部信喜 高橋和之補訂)としているように前述の通りになる。
井上秀典著 「持続可能な社会を考える 法律学入門」 八千代出版株式会社 2019年第1版,p94.p95.p98.p104.