先日の4陵に続いて、後編では6つの陵墓を紹介したいと思います。
天皇ご本人の知名度や陵墓自体の場所や眺めの面白さに基づいて勝手に10個に絞っていますが、かなり筆者の好みが色濃く出ているのでご了承ください。前述の通り「つまらない」場所に天皇の墓など造るはずがないので、移動が苦にさえならなければそれなりの体験は保証します。
なお順番は基本的に在位代の順ですが、より印象に残ったものは先に挙げています。
5. 土御門天皇金原陵(京都府長岡京市)
第83代天皇。父の後鳥羽天皇、弟の順徳天皇が承久の乱を起こしてそれぞれ隠岐と佐渡に流され、幼い甥の仲恭天皇は退位させられました。土御門上皇は関与していませんでしたが、自分一人が都に残ることを忍びなく思い、土佐、のちに阿波への配流を自ら申し出ました。
金原陵は唯一長岡京市にある陵で、詳しい経緯はわかりませんが「罪はないが一応流されている」という特殊な立場ゆえに、陵墓が旧都長岡京に臨む丘陵という絶妙の場所に造られていると考えられます。
長岡京遷都で苦労された桓武天皇の御陵を筆頭に挙げた前編を意識したのは言うまでもありません。
筆者は「天皇陵」を知る遙か前に(写真をさかのぼると2015年5月でした)長岡京観光をした時に地図でこの地が目にとまり、訪問しました。その後、後醍醐天皇の陵墓を訪問した機会に陵墓訪問が本格的に趣味になり、今に至った訳です。あくまで私事ですが全ての先駆けはここです。
百人一首のラストを飾る圧倒的な知名度を誇り、観光客で賑わう大原三千院に葬られている後鳥羽・順徳天皇の御陵と迷いましたが、以上の個人的な経緯と、せっかくなのでマイナーを紹介したいという思いによりこちらの紹介となりました。大原陵も三千院のついでにぜひどうぞ。
6. 後花園天皇山國陵・光嚴天皇後山國陵(京都市右京区)
光嚴天皇は北朝1代目(北1とかと省略されています)、後花園天皇はその玄孫(ひひ孫)で第102代天皇です。現在では後醍醐天皇が立てた南朝が正統とされるため、光嚴天皇から後圓融天皇に至るまでの5代は「天皇だけど歴代には入れない」という少しかわいそうな扱いになっています。南北朝時代はそもそもこの皇位継承争いが発端になっており簡単に説明することはできませんが、光嚴天皇は後醍醐天皇が倒幕を企て流されたことで即位しましたが帰還した後醍醐に即位を否定され形式だけの上皇になります。また時代が変わって後醍醐が都落ちすると北朝で院政を行いましたが南朝が勢いを取り戻すと拉致され幽閉されたりと波瀾万丈な人生でした。
時代は下り、後花園天皇は合一した朝廷の三代目でした。
実は前述の光嚴天皇らの拉致事件の際、拉致を免れ即位した後光嚴天皇の系統が北朝を継ぎますが、101代稱光天皇を最後にこの系統は絶えてしまいます。そこで白羽の矢が立ったのが後の後花園天皇です。奇しくも拉致事件の前に廃位され、弟の後光嚴に皇位を奪われた崇光天皇の系統がここに復活し、現在に至ります。また天皇としては皇権復活のために尽くしました。応仁の乱勃発時の天皇です。
長くなってしまいましたが、以上の二人は光嚴天皇が晩年に僧として修行し崩御した常照皇寺に陵墓があります。南北朝の争いに翻弄された光嚴天皇、そして真の南北朝合一の体現となった後花園天皇。「これでもう天皇家は分裂しません!」と二人で呼びかけてそうですね笑
常照皇寺は京都市とはいえ、中心部の四条烏丸から車で1時間かかります。筆者は数少ないバスを乗り継いで到達しましたが、本数は絶望的に少ないのでスケジュールの束縛や早起きが苦手な方はマイカーを使いましょう。常照皇寺自体紅葉の穴場(まあ場所が場所なので)として紹介されており、天皇陵云々以前に一見の価値充分ありです。光嚴天皇が晩年を過ごした神秘の世界、いかがでしょうか。
7. 清和天皇水尾山陵(京都市右京区)
一旦平安時代前半に戻ります。第56代清和天皇の治世では、祖父の藤原良房が始めての皇族以外の摂政になり、天皇即位や応天門の変の際も藤原氏が密接に絡んでいました。藤原氏は着々と力をつけていきます。清和天皇はというと、臣籍降下した子孫が多く、「清和源氏」として有名です。足利氏も源氏ですし、徳川氏も自称新田氏だったので、いかに「天皇の子孫」という肩書きが重要だったのかを清和天皇は図らずも後世に伝えています。実質江戸幕府の滅亡までの「将軍の権威」の証明が、元を辿れば貴族藤原氏の言いなりになっていたこの人だという皮肉。まあ武士も貴族もやり口は全く一緒なので皮肉ではないのかもしれませんが。
先日3番目に淳和天皇陵を挙げてしまったので(京都の中での)遠隔地は選びづらかったですが、やはり到達難易度が高いと印象の残り方が違います。都心部の一角にある陵墓もいいですが、「角を曲がると別の世界が」「周辺は閑静な住宅街」などと決まり文句を書き連ねるだけですし。
淳和天皇は特別に最上位に添えましたが、5, 6, 7は順番でかなり迷いました。陵墓は柚子で知られる水尾地区の山の上です。水尾集落はJR保津峡駅から徒歩1時間。駅の段階から秘境ですね笑
コミュニティバスもありますが徒歩かマイカーで頑張りましょう。後悔しません。
8. 宇多天皇大内山陵(京都市右京区)
宇多天皇(第59代)もなかなか面白い天皇です。一度臣籍降下していますが、色々あって皇位が転がり込んできました。藤原氏勢力に対抗するように菅原道真を推し、仁和寺を建立したのは彼です。歌合わせも多く行い、百人一首に選ばれた歌人も彼の時代の者が複数います。在原業平と相撲を取った逸話があったりもします。真言宗の阿闍梨になるなど仏教界での影響も大きなものでした。
陵墓も「こじんまりとした」を王道で行くような立派なものです。仁和寺の裏の道を北上した森の中にあります。途中で一気に道の状態が悪くなり、不安になりますがご安心を。筆者は多分天皇陵単体で見れば一番好きです。場所といい配置といい雰囲気といい、良いセンスしてます。誰のセンスなのだろう。宇多天皇なだけにどうしてもこじつけになりますが。8番目なのは他に遠慮したからです。
9. 明治天皇伏見桃山陵(京都市伏見区)
京都最後の天皇陵。天皇家は江戸改め東京に移りましたが、明治天皇は京都埋葬を望みました。最早語る必要はないですね。
京阪伏見桃山・近鉄桃山御陵前・JR桃山と交通アクセスは抜群。戦前は大変賑わったといえます。
明治天皇陵の一番の強みはやはりその規模。大階段からの眺めもなかなか。運動に使っているおじさんもいましたけど笑
10. 花園天皇十樂院上陵(京都市東山区)
花園天皇は後醍醐天皇の一つ前の天皇で、6の光嚴天皇の叔父に当たります。主な功績としては自らの御所を禅寺に改め、妙心寺として開基したことが挙げられます。
花園天皇陵は筆者が京都で最後に訪れた陵墓です。以前7の項で都心部の陵墓は今ひとつかのような表現をしましたが、その中では抜きに出て良い陵墓だと個人的に思います。参道が心地よい具合に林の中を蛇行し、静かな雰囲気を醸し出しているのがポイント。青蓮院と知恩院という超有名な寺に挟まれており、どこかで思わず通り過ぎた方もいるのではないでしょうか。地味ですがお金も取られません。周辺を通りかかったならばぜひ。わずか5分で不思議な世界を堪能できます。
まとめ
以上、京都に限定しましたが「天皇陵」の世界はいかがでしたでしょうか。
これからも「和歌紀行」などで(自己満足ですが)他の都府県の御陵も紹介していきたいです。
一応「お墓参り」ですし、筆者自身「人様、しかも天皇のお墓にズカズカと入って写真を撮りまくる無礼な変人」と言われればそれまでです。一部の方にはそう映ったかもしれません。申し訳ありません。
しかし、言い訳程度ではありますが筆者の心構えを述べさせていただきます。
そもそも「墓参り」はなんのためにするのでしょうか。しかも親戚でもない、果ては自分とはほど遠い生活をされていた方々の墓参りをなぜ。筆者は墓参りは「現在と未来の精神的基盤」だと思います。墓参りをする人が偉いわけではありません。墓参りは他でもない私たち一人一人の心を支えているまでです。
人間は記憶され、時に尊敬され、時に貶されてこそ人間です。しかし最も大事なのは記憶されることです。「忘れられる時が二度目の死」と言われますが、死以上に悲しく辛いものだと筆者は考えます。
一概に「記憶するため」ではなくとも、墓参りとは「人間は過去を踏まえて現在、そして未来を生きるのだ」という文明の根底にある心の支えなのです。死者への冒涜は太古の昔から万国共通の悪です。それは墓参りが重んじられる以前に、自然と文明人の中にすり込まれています。
こういうことは人間として捨ててはならないのだと、筆者は天皇御陵を訪問するたびに考えるようにしています。スタンプラリー感覚で「次のはあんなに遠いな。めんどくさい」と思ったことは何度もあります。それは否定しません。しかしこうして書き綴るとそれが申し訳なくて仕方がありません。そしてまた申し訳なく思える自分であることを確認し、安堵する、の繰り返しです。「墓参り」はそういうものだと思います。行けばいいのではなく、行かなければダメなのでもありません。手段が目的化しようが目的が手段になろうが、私たちの心を支えていることには変わりないのですから。まさに自己満足。しかしそういう自己満足から人の営みは生まれ、脈々と引き継がれていくのではないのでしょうか。
京都に眠る皇族、そして陵墓に思いを馳せた皆さんに捧ぐ。