2016年9月28日。
時系列的には名鉄全線制覇をした翌日になります。
名鉄の乗り放題きっぷが二日間有効(というより一日券が高すぎる)なので二日目はゆっくり観光しようと思いました。
中京圏は全国区で有名な観光地が少ないのでマニアックな内容になりますが、これを機会に中京圏の旅に興味を持つ方が一人でも増えればと思っています。
筆者は尾張瀬戸駅で全線制覇を果たした後のホテルを確保しておらず、より賑わいのある新瀬戸駅付近のベンチで初電までの時間を過ごしました。
(治安の良い日本とはいえ非常に危ないのでこのようなことは二度としないと誓いました。)
この時ほど5時間が長く感じたことはありませんでしたね。
やっとのことで初電が到着し、助けられたような気分で名古屋へ。
まず向かったのが桶狭間の戦いの古戦場です。
知名度の割に実際に足を運んだ人は少ないと思います。
「桶狭間の古戦場」というと名古屋市緑区と愛知県豊明市にある二つの場所を示します。
そもそも「桶狭間」自体が地理的には不正確なのですがそれは置いといて、その二つの場所がそんなに離れていないため両方行けばいいだろうということで両方行きました。
有松駅で下車し、ガイドマップやスマホを頼りに住宅街の中を南下。
高根山という高台にある有松神社。神社自体は日清以降の戦没者を祀っているので古くないのですが、この山から今川方が監視をしていたと伝えられます。無駄でしたけどね。
かなり歩いて桶狭間古戦場公園に到着。
今川義元が討ち死にした場所の記念碑です。
桶狭間の戦いがテレビで扱われるとおそらくしばしば登場するであろう両雄の像。
このように設備面ではもう一つの古戦場に勝ります。
また少し歩くと今川義元の供養寺の長福寺です。
続いて桶狭間神明社。こちらも神社自体はあとでできました。
今度は北上しもう一つの古戦場へ。
あちらには銅像があるなら、こちらには義元の墓があります。
駅からのアクセスはこちらに軍配が上がります。中京競馬場前駅から徒歩3分です。
競馬場にはあのパノラマカーが展示してありますが生憎の修理中で見れませんでした。
撮り鉄ではありませんが、どうやらこの駅は撮影地らしいです。
通過列車が多く試しに撮ってみました。
後半は知多半島の美浜町にある大御堂寺(野間大坊)に行きます。
知多新線の終点内海の一つ手前、野間駅が最寄りです。
末端区間なので本数は多くありませんが日中は1時間に3本は走っています。
野間大坊とは平治の乱に敗れ落ち延びた源義朝が家来の長田忠致らに裏切られ殺された場所です。
「裏切り者」といえば戦国の明智光秀や小早川秀秋らを真っ先に思い浮かべる方が多いと思いますが、長田忠致はここ知多半島の奥地に主君を匿いながらもだまし討ちにするというとんでもない人でした。
筆者の中では裏切り者の代名詞は問答無用で長田です。
源義朝の墓です。
風呂場で不意打ちを食らった義朝は「我れに木太刀の一本なりともあれば」と言ったと伝えられており、そのため墓前には木刀が備えられています。
こちらは織田信長の子、信孝の墓です。詳細は後述します。
早死にした息子家盛の若い頃に似ているからという理由で頼朝を助けさせ、結果的に一族滅亡の遠因をつくってしまった池禅尼の供養塔です。
父の墓の近くに立てていることからも、頼朝がいかに池禅尼に感謝していたかが分かりますね。
長田忠致の話からは打って変わってすっきりする話です。
続いて義朝の乳兄弟で腹心、鎌田政清(政家)夫妻の墓です。
保元の乱・平治の乱で活躍し、主君と運命を共にします。
忠致の息子景致に討たれました。
義朝の墓が荒れ果てていたのを修理した平康頼の供養塔です。
(※この供養塔自体に源氏が関係しているとは考えにくいですが)
康頼は鹿ヶ谷の陰謀の首謀者の一人として島流しになり、後に許されるなど数奇な運命を辿っています。源氏が勝利した後は阿波国で国司に任ぜられます。
池禅尼の場合と同様、元気をもらえる話です。
織田信孝は豊臣秀吉との争いに敗れ野間大坊の向かいの安養院で自害しました。
その時の短刀と、切腹の際に腸を投げつけた掛け軸が残っているとのことです。
辞世の句(少しできすぎですが)では義朝に自分を重ね合わせながら秀吉を呪っています。
まさか同じ場所で…と思いますよね。
野間駅の反対側に「義朝が死んだ湯船趾」が残っているらしいです。
これは行くしかありませんでした。
逆行が残念ですが、これで野間は一通り堪能できました。
帰りは雨が降り出して散々でした。
名鉄で現世に戻ります。前の日に訪れた中部国際空港再び。
人の行き交う空港で改めて現代に戻ったことを自覚しました。
野間は驚くほど鎌倉時代に戻った気分になれるのでオススメです。
最後はミュースカイ。わざわざ名鉄に乗りに来て外す理由がありません。
終点の岐阜まで乗りました。
以上、乗り鉄の次の日は桶狭間と野間大坊を楽しんだ筆者でした。