和歌紀行3:弘文天皇陵(滋賀県大津市) | WALKING SHADOW

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全ての旅は一度きり。

さざなみの 大津の宮の さきははて

近江ながらの 追はるる身なり

 

 

後醍醐天皇陵訪問の後、天皇(や皇族)の陵墓に興味が沸いてしまった筆者。

どれも同じようなお墓でどこが面白いのかと聞かれたら困りますが、そこは天皇。

看板の名前を見るだけで不思議と歴史が身近に感じられるからだと思います。

 

時は流れ2017年4月30日。

滋賀県唯一の天皇陵である弘文天皇陵に行きました。

弘文天皇と言えば聞き慣れない方もいるかもしれませんが、壬申の乱に大海人皇子(後の天武天皇)に敗れ自害した「大友皇子」でピンとくると思います。「弘文天皇」とは後に贈られた名前です。

 

細かい話は省きますが、父の天智天皇の造った大津宮を引き継ぎましたが以前から皇位を奪うことを目論み味方を集めていた叔父の大海人皇子の勢いに圧倒され大津宮共々散った形です。

1000年後にも重要な合戦が行われることとなる関ヶ原付近をはじめ戦いは広範囲に及びました。

「反乱を起こした側が完全勝利を収める」という日本史でも珍しい戦乱となりました。

 

こうして僅かな治世を悲劇的な最期で迎えた弘文天皇は、今も静かに大津の地に眠っています。

 

 

陵墓は圓城寺(通称「三井寺」の方が有名ですね)の北、大津市役所の裏にあります。

最寄りは京阪京津線の別所駅。JRの大津京駅からも遠くはないです。

余談ですが、この「大津京」という名称が歴史上正しくないという説が有力なので地元の方は複雑な思いでしょう。先ほど述べた「大津宮」や「近江京」の方がより正しいらしいです。

 

 

 

 

陵墓の名前が長等山前陵(ながらのやまさきのみささぎ)となっていますが、長等山(ながらやま)という近江と山城国との境に位置する山の山麓に位置しているためです。

JR湖西線の山科~大津京間のトンネルが「長等山トンネル」と呼ばれるのもそのためです。

 

 

 

 

(本歌)

さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

(千載集、よみ人知らず)

 

 

弘文天皇、そして平忠度に寄せて。