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正確に言うと、池坊さんのサイトにこのエピソードは語られているということなので、「秘話」ではありませんな。
世に知られていない話、というところか。
いわく、千利休に切腹を命じた豊臣秀吉に対して、池坊専好が猿をモチーフにした花を生けた。
これは、利休の仇討ちを華道を以て果たしたものだ、という訳である。
まあ、伝説ですからね。解釈の部分は。
そういう花を生けたということ自体は、事実であるらしい。重要なのは、そこ。
そして、ますます面白いのは、
「各御殿の座敷飾りの全体を指揮したのは茶人として知られた武将の織田有楽斎(織田信長の弟)で、専好が大広間三之間の床に松の大砂物を立てたという。」
という説明。
宮内庁まで記録に絡んでいるようなので、この辺の事情は真実とみてよかろう。
ふ、ふ、ふ。
出てきたね、有楽斎。
当研究所の「超時空伝説」世界では、有楽斎は本能寺の変で生き残った織田信長だということになっている。
「これを前提とすれば」有楽斎が秀吉を迎える催しとして、「猿」をモチーフにした壮大な生け花を演出するというのは、まったくもって不思議はない。
「『猿』よ、よく来たな」
にやりとほくそ笑む、有楽斎の表情が思い浮かぶではないか。
そして、このエピソードを「利休の仇討ち」と解釈する根拠は、「猿」とは秀吉に対する「悪口」「蔑称」だという理解にある。
だが、それは違うと思うのだ。
往古、けものの名を名乗ることは広く行われていた。それはけっして蔑みや差別の意味ではなく、ごくごく普通のことだった。
秀吉の「猿」も、蔑称ではなかったのだ。
猿とは日枝大社における「神の使い」とされるけものである。
日枝大社と神猿(まさる)の関係については、当の日吉大社さんが語られているページを参照。
「日吉(ひよし)大社」は、元々「日枝(ひえ)大社」であり、発音は「ひえ」が本来である。
吉字である「日吉(ひえ)」を当てたが、それが「ひよし」と読まれるようになったのだ。
これは、「住吉(すみよし)大社」がもとは「住之江(すみのえ)」を由来とすることと、並べて考えてよい。
そして、「日枝(ひえ)」はもちろん「比叡山」のことである。比叡山延暦寺は、もともと日枝大社が存在する土地に開山されたのだ。
この裏には、深いからくりがありそうだが……。
で、秀吉と言えば幼名は日吉丸と伝わっている。その上、ニックネームが「猿」というのであるから、これはもう日吉大社なり日吉神社、延暦寺に所縁のある素性と宣言しているようなものだ。
事実、日吉大社には「樹下(きのした)家」という神職の家系が存在し、「樹下宮(きのしたのみや)」という社殿が存在する。
蔑称どころか、由緒正しい家柄を表象するものというべきである。
「のう、日枝の猿よ……」
信長は、ユーモアを込め、優しい目で秀吉を呼んだのではなかろうか。