やはり、本能寺ネタは強いですね。
そこで、味をしめて二匹目のドジョウを狙います。
「431年目~」に書かれている説への賛否はともかく、同書がなかなかの労作であることは事実です。
いろいろな資料に当たっているし、几帳面に整理もされている。
巻末に「光秀年表」という年表がついていて、泣かされます。
これをつらつら眺めていると、そこはかとなく面白い。
(以下、著者による解釈込みでの年次別事件です)
面倒くさいので、全部西暦で行きます。
1563年: 光秀は将軍義昭に「足軽」として仕えている。
1568年: 光秀、長宗我部元親と信長の間を取り持つ。
1569年: 光秀、本圀寺の防衛戦で足軽衆と共に奮戦。
同年: 光秀、幕府の奉行衆として京都の行政に関与。
1570年: 光秀、幕府高官として山科言継の年頭挨拶を受ける。
1571年: 信長、光秀に近江志賀郡を与えて家臣とする。
これがすべて真実だとすると、わずか8年で光秀は足軽から城持ちの大名に出世したことになります。
いくら下剋上の世の中だといっても、それはどうだろうか?
しかも、出世の階段を上ったのは足利幕府内が主である。7年で足軽から「幕府高官」になったというのだから。
切り取り放題の戦国大名家中ならいざ知らず、さすがに幕府内部でそんな抜擢はないでしょう。
よって、当研究所としては、光秀は(当年表でいう)1563年時点ですでにある程度高い地位にいたものと推測します。将軍家足軽の「明智」は、同姓の別人と見るべきでしょう。
さて、1571年光秀は信長の延暦寺焼き討ちに参戦します。これはどういう事情によるものでしょうか?
まず、信長の事情としては、自分の政策上、延暦寺の存在が邪魔であった。宗教弾圧が主目的ではなかったと考えます。
地政学的には比叡山は越前、越後と畿内を結ぶ物流ラインのネックとも言うべきポジションにあり、軍事戦略的に都を脅かすとともに、経済活動のボトルネックになっていたと考えられます。
延暦寺は、陸路の通行には関銭をかけ、琵琶湖の水運からも関税を徴収していたそうです。
光秀が城を築いた坂本には、琵琶湖水運の問屋が軒を連ねており、彼らは延暦寺に所属する寺衆という位置づけだったのです。
信長は、延暦寺による経済活動の独占を打破し、畿内=北陸ルートの経済流通を自由化しようとしたのですね。
では、なぜ光秀は信長方の武将として比叡山焼き討ちに参画したのでしょうか。
光秀にとっても、比叡山が邪魔になる理由があったのではないか?
それは足利幕府というよりも、朝廷の立場ではなかったかと思われます。
延暦寺が富を独占し、朝廷の収入を脅かしていたことは間違いありません。
「南都北嶺」と呼ばれ、数多くの荘園を有していたことは紛れもない事実ですし、大津や坂本あたりも延暦寺の荘園だったようです。商品流通の利益も、関銭という形で吸い上げていた。
また、当時貴重品だった「麹」の生産・流通にも延暦寺の支配が及んでいたようです。
朝廷には独自の軍事力はないので、諸勢力に巧みに取り入り、パワーバランスを操作することによって、自らの存在を守る高等な政治活動を繰り広げていました。
光秀もいわば朝廷のエージェントとして、足利幕府に派遣されていた人間だったのではなかろうか?
フロイスは、光秀が「賤しき歩卒であった」と記録しているが、それが事実だとしても1563年に足軽だったとはかぎらない。そのスタートは禁裏の衛士か、兵部省の小役人であったかもしれないが、1563年時点では相当な地位まで昇進していたのであろう。
そして、その才を買われて、足利義昭の下に派遣されたと考えられる。朝廷の利益を代弁するものとして、幕府を牽制するのが役割だったのだろう。
光秀は優秀なエージェントだった。信長とも友好関係を築き、朝廷の利益を守れるのは足利義昭ではなく、信長だと乗り換えたのだろう。
信長も、そうと知った上で、光秀を利用した。光秀に比叡山を攻めさせたのは、本当に味方となって働くのかという「踏み絵」の意味と、光秀の持つ「土地鑑」を利用するというふたつの意味があったのではないか。
光秀の取り扱いについて、信長も朝廷への配慮を示しているように思われる。
ひとつは、光秀に与えた領地である。坂本、大津という京にとっての戦略上の要地に置き、「京を守る」形を与えた。
もうひとつは、光秀に与えた職名、「日向守」である。日向は天孫降臨の地であり、皇室の守護者に相応しい役職といえる。
光秀が朝廷の家臣だったと思わせるエピソードも、ふたつある。
ひとつは、信長の光秀への領地給付に対する朝廷の抗議である。信長が光秀に与えた土地に、諸門跡の領地が含まれているのでこれを返還せよという綸示が出されている。
光秀が朝廷家臣であるからこそ、皇室出身者が門主となった寺の領地を勝手に与えるような真似はしてくれるなという抗議ではなかろうか。
もうひとつのエピソードは、「惟任下賜」である。先に述べた「日向守」という職と共に、信長からの願いにより朝廷が光秀に与えた姓である。姓を与え、職を与えている以上、光秀は朝廷の家臣ということになる。
もちろん、このようなことは形式的に行われていたが、光秀の場合は特別な意味があったのではなかろうか。
丹羽長秀は「惟住」の姓のみ、秀吉は「筑前守」の職のみを賜っている。
光秀は朝廷の家臣であるが故に、姓と職の両方を与えたのでは。
さて、浅井・朝倉を滅ぼし、足利義昭を追放、松永久秀を滅ぼし、武田を滅ぼした後は、パワーバランスは信長一極となる。
朝廷としては、光秀に信長を牽制させておけばよいのだが、それが難しくなっていく。
信長は、中国、四国の平定に兵を向けた。光秀には、苦戦する秀吉を応援する形で毛利攻めに参陣せよという。
朝廷目線でみれば、これはあんまりだ。京の平和維持とは全く関係ない。
織田家としての侵略戦争に、朝廷の家臣を駆りだすのは越権行為だ、ということになる。
光秀もそういう意識ではなかったか。信長との不協和音が発生する。
だからといって、「信長討つべし!」と直結した訳ではなかろう。老獪な朝廷の政治手法に似つかわしくない。
「困りましたな……」
「他にやることもありますし……」
「体の具合が……」
言を左右にして引き延ばしてしまうというのが、朝廷流の交渉術である。
光秀が信長を討ったのには、朝廷の家臣として已むに已まれぬ事情があったはずだ。
その事情とは……
というお話は、またこの次にさせていただきましょう。
ただ一ついえるのは、光秀にとって「本能寺」は謀反という認識はなかったのではなかろうか。
むしろ、「朝敵征伐」という正義を行うつもりだったと考えられる。
だから、別に信長にいじめられて恨んでいたとか、元々天下を我がものにする野望があったとか、そういうどろどろした話とは違うのじゃないか。
朝廷に仇なすものを討ち果たす。シンプルかつ健全な?思想で行動したものと考えると、「本能寺の変」はさほど不思議な事件でなくなりそうな気がする訳です。
いわずもがな、これはすべて個人の妄想である。
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