■「住友井桁」をみて妄想する。
「住友グループ広報委員会」によれば、住友家が商標として「井桁」を用いたのは、元々の屋号「泉屋」に由来する。
泉屋は、住友家の娘婿蘇我理右衛門が京都に開いた店の屋号としたものといわれる。
蘇我理右衛門は「南蛮吹き」と呼ばれる独特の技術を用いて粗銅から銀を取り出すことに成功し、巨額の利益を得た。これより住友家は銅精錬を家業とすることになった。
この功績を以って、住友家では蘇我理右衛門を「業祖」と敬う。
住友家は世界最古ともいわれる財閥として発展し、日本の産業、経済を支え続けてきたことはここに語るまでもない。
それもこれも蘇我理右衛門とその子理兵衛(住友家の養子となり、住友友以として家を継いだ)の存在があったればこそである。
この辺の事情をつらつらと眺めていると、要らぬ妄想がわいてくる。
①なぜ「泉屋」なのか?
泉屋という屋号は、蘇我理右衛門が父の出身地である「和泉国」にちなんで名づけたものという説がある。そうかもしれない。
そこで和泉国に想いをいたせば、当研究所お馴染みの「泉穴師神社」に着目せずにはいられない。超時空伝説上は、当社を土師氏一族の祭神と解する。
大和の「穴師坐兵主神社」を源流とし、そこから分かれて和泉国に分祀されたものとみる。
いかんせん古代のことであるから穴師神社にまつわる諸事は推測の域を出ないのであるが、超時空伝説としては次のような流れを想定している。
a. 土師氏は出雲勢力に由来する渡来系氏族である。
b. 「国譲り」にあたりヤマト王朝=天孫一族に仕える道を選んだ。
c. 兵主神は出雲系の神であり、大己貴尊=大国主命である。
d. 泉穴師神社に栲幡千々姫命(タクハタチヂヒメノミコト)を祀るのは、鉱山・製鉄を中心産業としていた土師氏が農業系の民と融合し、農業・紡織業を一族の産業に取り込んだことを示している。
土師氏にとって和泉は大和に次いで重要な土地だったのだ。
さて、蘇我理右衛門は鉱山開発、銅精錬を生業とした人間である。土師氏の流れを汲むものと考えてもおかしくはなかろう。
その文脈で泉屋の名を振り返ってみれば、
泉とは和泉国の古名であると同時に、泉穴師神社を指すものと考えられる。一族の祀る神から名を取ったということになる。
②なぜ「井桁」を商標としたのか?
泉を表しているという由来で十分かもしれないが、「井桁は泉を表す」という一般的な了解があったとは思えない。泉とは自然にわき出る水であり、井桁は掘りぬいた井戸を支える構造物である。両者は一つにくくられるものではない。
井桁は素直に構造物を象徴していたのではないか?
その構造物とは、ずばり「坑道」である。特に竪掘りの坑道口には井桁構造の木組みが存在したはずだ。
蘇我理右衛門あるいは住友友以は、家業であり、土師氏の祖業である鉱業を表すために井桁を商標としたのである。
さらに妄想は深層に迫る。
「鉄と草の血脈-天神編」では、土師氏の祖先をユダヤの部族に想定し、フリーメイソンの伝統を受け継ぐ集団だったのではないかと想像をめぐらした。
この文脈で井桁を眺めてみよう。
「コンパスと定規」のシンボルマークと符合しないか?
ユダヤの土木・鉱業従事氏族が日本に渡来し、その職業的伝統のシンボルであったコンパスと定規のマークが、より象徴化された井桁マークに変化したのだ。
③なぜ理右衛門父子に住友の家系を継がせたのか?
「蘇我」といえば古代豪族である蘇我氏を思い出す。理右衛門があの蘇我氏の末裔であったかどうかは定かではないが、何らかの関係を有していたのではないかと推測される。
蘇我氏は渡来系の技術者を多数抱え、これを上手く活用したことによって勢力を拡大したと考えられている。その中に土師氏が含まれていたかどうかは定かでない。
だが、土師氏がそのような渡来系技術者集団を次第に吸収していったのではないかという仮説は、成り立ちうるものであると思う。
歴史の表舞台に立つ王侯貴族は入れ替わっても、その裏側ではいつの時代も技術者集団が国を支えていたのだ。
住友家の業祖蘇我理右衛門は、土師氏の「蘇我系部族」に所属していたのであろう。
④なぜ住友家代々の当主は「住友吉左衛門」を襲名したのか?
友以の子、三代目住友友信は「吉左衛門」を名乗り、以来歴代当主は吉左衛門と名乗ることになった。それはなぜか?
住友の「住」に吉左衛門の「吉」、すなわち「住吉」を名にいただくということではなかったか?
住吉大社につながるものということを暗示していると思われる。
となれば、住友家の基とは住吉大社の神人あるいは犬神人だったのではないか?
住吉大社は底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)という住吉三神を祀る。海の神、航海の神として古くから信仰を集めてきた。
「住吉」は元は「すみのえ」と読み、地名の「住之江」からきている。古代においては畿内と諸外国とをつなぐ重要な港であった。遣唐船もここを出発点とするなど、朝鮮半島との往来の窓口となる海上交通の要だったのだ。
その土地柄から、渡来系の工人や貿易・通商を生業とする渡来人が集団を形成していたものと推測される。彼らはメイソンリーのシンボルを集団の象徴として掲げていたのではなかったか?
⑤「中之島図書館」に秘められた謎
2013年11月20日、大阪府知事松井一郎氏はかねてから美術館などへの転用が検討されていた中之島図書館について方針を一転し、「図書館機能を堅持しつつ、周辺とセットで魅力あるものにしたい」と述べ、図書館として存続させることを明らかにした。
現在でこそ「大阪府立中之島図書館」を正式名称とするが、その設立時の名称は「大阪図書館」である。「府立」の文字はどこにもない。
何を隠そう、中之島図書館は住友家十五代目当主住友吉左衛門が私財を寄付して創建したものなのだ。
正面はギリシャ神殿を模し、外観はルネッサンス様式、内部はバロック様式を基本としているといわれる。国の重要文化財に指定された歴史的建造物である。
正面入口を入ると、ドームを頂くホールが入館者の前に広がる。
そのホールの正面、堂々たる階段を上がって行くと正面に菅原道真の名を刻んだプレートが飾られている。大正十一年の改装時に孔子やソクラテスなどの世界八哲のひとりとして掲げられたものである。
これは土師氏の宗家菅原道真に対する尊敬崇拝の念を形として表すために行われたことであろう。
中之島図書館は土師氏あるいはメイソンリーの国家貢献のシンボルとして、いわば「知の神殿」として築かれたものといえよう。
いかに橋下大阪市長率いる維新の会といえども、中之島図書館を単なる「容器」として扱うことは許されないだろう。方針転換の裏には、政財界からの隠然たる圧力が存在したのではないかと想像する。
これはすべて想像の産物である。