一つのエピソードとして、「髑髏杯事件」がある。
髑髏=頭蓋骨で作った盃に酒を注ぎ、信長が光秀に飲み干すことを強要したというのだ。
これっていま風にいえば「パワハラ」であるが、いやがらせにしては手が込んでいる。
髑髏で杯を作るのには、手間も暇も相当にかかる。
実はまっとうな儀式だったのではないか?
フリー・メイソン入会の儀式として、髑髏で作った盃にワインを注ぎ、それを入会候補者に飲ませるという風習がある。けっして悪魔的な儀式ではなく、生命のはかなさを知らしめた上でそれを大切にさせるという意味があるらしい。
信長が光秀に課したのも、そういう儀式ではなかったのか?
また、信長についてイエズス会のフロイスは当初肯定的な評価をしていたが、後に酷評している。
キリスト教の「敵」というべきフリー・メイソンであることがわかったからではないのか?
そういう「軸」で本能寺の変を読み解き直すと、まったく違った絵が浮かび上がってくるかもしれない。
それもまた妄想の楽しみといえよう。
これはすべて想像の産物である。