・律令制(=公地公民)への改革を進めていたのは、実は蘇我氏
・中大兄皇子と中臣鎌足は、むしろ改革の抵抗勢力
・中臣=藤原氏は、豪族の私有地放棄に便乗して全国の土地を簒奪した
ということになる。
大化の改新、または乙巳(いっし)の変を「正義の戦い」ととらえる必要はたしかにあるまい。
つまるところは勢力争いである。
中大兄皇子=天智天皇から天武天皇への流れは不明瞭で、うさんくさいところもありそうだ。天智が名君であったという訳でもない。
かといって、藤原氏が「絶対悪」であったかといわれても、簡単に頷けない。やり手ではあったろうが。
全国の土地を一手に集める事が出来たのは、荘園経営が圧倒的に巧みだったからではなかろうか?
開墾、灌漑、耕作、育苗、融資など、総合的な農業経営に長けていたのだろう。要するに独占企業になったということだ。
となると、技能集団を抱え込んでいたと推測されるのだが、はたしてどのような集団か?
当研究所的には土師氏ではないと考えたい。そうでないと、菅原対藤原という対決構造が崩壊してしまう。
別の渡来系技能集団か? いずれにせよ、半島経由の帰化人であろう。百済人辺りかもしれない。
そうなると、大化の改新で蘇我の入鹿が討たれた後、古人大兄皇子が、
「韓人が入鹿を殺した!」
と叫んだことも意味が通ってくる。中臣が半島人を多数使役していたということではないか。
半島事情に詳しい藤原氏がバックにいたからこそ、中大兄皇子は新羅征伐に乗り出したのだろう。志に反して、大敗を喫することになるのだが。藤原氏の持ち芸に「戦争」は含まれていなかったのであろう。
特に、海戦は。
話を戻して、藤原氏が農業経営で富を築くことは天皇家にとっても悪い話ではなかったのではないか。要するに、悪徳(?)企業に不法な独占利潤を与えておいて賄賂を受け取る政治家と同じことをやっていたのだろう。
武家が登場して、武力で土地の奪い合いを始めると、荘園制は機能しなくなった。群雄割拠とは独占状態の崩壊ということであり、自由競争社会の開幕ということである。
よって藤原氏に代表される貴族も、皇族も衰微した。かろうじて「幕府」という国家軍にすがることで、貴族体制は細々と息をつないだ。
武家に主役を譲ってから堪えることおよそ700年、天皇家も貴族もしぶとく生き延びている。考えれば、凄まじい生命力というべきであろう。世間は勤皇の志士をもてはやすが、貴族政治家こそ恐ろしい人々である。
かれらは徒手で幕藩体制を倒して見せたのだ。
その貴族を代表する藤原氏という勢力を、もう少し分析してみるとおもしろいことが見えてきそうだ。
これはすべて想像の産物である。
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