「天神の故郷」 | 「藍染 迅(超時空伝説研究所改め)」の部屋

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小説家ワナビーの「藍染 迅(あいぞめ じん)」です。

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代表作は異世界ファンタジー「「飯屋のせがれ、魔術師になる。」。

「天神の故郷」
 
1.土師氏の里:
 
大阪府藤井寺市に「土師ノ里」という名の駅がある。
近畿日本鉄道南大阪線の駅である。
 
古墳時代の豪族土師氏の本拠地だった場所だ。
 
土師ノ里駅の隣は道明寺駅である。
道明寺には、その名の通り道明寺と道明寺天満宮が存在するが、それについては後で触れたい。
 
道明寺付近には「応神天皇陵」に比定されている誉田御廟山古墳を始め、大小様々な古墳が多数存在する。
飛鳥地方と並ぶ古墳の密集地である。
 
土師氏の活動がいかに活発であったか、想像に難くない。
 
これだけ多数の巨大遺構が残る地方は、世界的にも稀な筈だ。
なぜこのような大工事を、長期に渡って続けることが出来たのか。
 
農業生産性の高さによると考えられる。
 
安定した年間降水量と平均気温。
広大な平野面積。
これらの要因が稲作とマッチした。
 
更に鉄器の普及が、農耕労働の効率向上に貢献した。
 
土師氏は土木技術に長けると共に鉄器製造を司った古代におけるテクノクラートだった。
 
2.土師氏のルーツ:
 
土師氏の祖とされる野見宿禰に関する伝承を見ると、土師氏は出雲系豪族であると考えられる。
国譲りに伴いヤマト王権の支配下に編入され、大和国當麻=現奈良県葛城地区の土地を与えられたのだろう。
その故事が當麻蹴速(たいまのけはや)との相撲勝負として寓話化されたと考えられる。

相撲の起源として紹介される故事である。
 
「當麻」とは「麻を打つ」ことを指すのではないか。
当地には紡績系の氏族が先住していた為争いが起こり、野見宿禰一族が勝利を得たということになる。
 
繰り返しになるが、「野見」は「鑿」に通じ、石工を表す。
 
野見宿禰に与えられたこの土地を中心に、土師氏は大和一帯に勢力を伸ばしていったと考えられる。
 
當麻地区から東に十数キロ離れた場所に穴師と呼ばれる地域がある。
土師氏の採鉱・製鉄者としての性格を地名化したものだろう。
 
穴師とは「鉄穴師(かんなし、かなし)」と呼ばれる砂鉄採集者を指している。
 
万葉集巻の二十神遊びの歌1076に、

 纏向の穴師の山の山人と人も見るがに山かづらせよ
 
の歌がある。
 
穴師といえば山人であるという認識が、万葉人の常識となっていたことが分かる。
 
土師氏が穴師であるという傍証は、他にも存在する。
 
穴師の土地には、「穴師坐兵主神社(あなしにいますひょうずじんじゃ)」があり、大己貴尊(大国主)が祀られている。
大己貴は別に大穴持(オオアナモチ)とも呼ばれ、穴師の首領ということであろう。
 
鉄穴師一族は、現代でいえばM&Aのような形でヤマト王朝に併合され、當麻の土地を与えられた。
そこで土木工事や製鉄労働に従事したのであろう。
 
3.相撲の起源:
 
穴師の砂鉄採取方法は「鉄穴流し(かんながし)」と呼ばれ、砂鉄を含んだ土砂を水で流し、沈殿させることで砂鉄を分離するという方法である。
 
当然下流の住民とトラブルが発生する。
水利権の侵害と水害、水質汚濁の発生である。
 
下流の農耕民としては、勝手に水を堰き止められたり、あるいは氾濫させられたのでは溜まったものではない。
 
ただ、鉄穴流しは害だけをもたらすわけではなく、土砂の堆積によって棚田が出来るというメリットもあった。
(「八岐大蛇」の項を参照)
 
中国地方の棚田には、鉄穴流しの結果出来上がったものが数多く存在する。
 
残念ながら當麻地区の場合は、紛争が勃発したのだ。
 
そこで「すまひ」で勝負を決することになったというのが、相撲起源説話である。
 
実は、競技としての相撲をなぜ「すもう」と呼ぶ様になったかは定かでない。
「すまひ(名詞)」から来ていると言われているが、「すまひ」の語源が明らかでないのだ。
 
当研究所では、ストレートに「住まひ」から発していると考える。
 
當麻地区の居住権を争う戦い。
それが相撲の原点である。
 
格闘技などではなかったのだ。
 
蹴速という名前も「蹴り技が得意だった」と理解されているがどうだろうか。
紡織集団の特徴と考えれば、機織機を踏む足が速かった=機織に長けていたという属性表現ではなかったか。
 
そう考えると、葛城という地名も納得できる。
「葛」は麻と並んで代表的な繊維原料植物である。
 
當麻地区先住民を支配下に入れた穴師集団は、紡織技術も集団の属性として取り込むことになった。

野見宿禰を使役した垂仁天皇の都は、穴師の付近にあったとされ、「大和国纏向珠城宮(やまとのくにまとむくのたまきのみや)」或いは「師木玉垣宮(しきのたまかきのみや)」と呼ばれる。
 
丸石を積んだ石垣で、宮を囲っていたのではなかろうか。
 
玉石を積む施工法は、一部の前方後円墳に見られる「葺石(ふきいし)」を思わせる。
 
石を積む行為自体が、王権に対する尊崇と帰順を表していたことであろう。
 
垂仁天皇の御陵は、「菅原伏見東陵(すがわらのふしみのひがしのみささぎ)」と呼ばれ、宝来山古墳に比定されている。

いかにも土師氏と縁の深い天皇に相応しい。
後の「菅原氏」という名乗りは、この御陵名から名付けたものと思われる。
 
土師氏は、三輪山の北方に当たる穴師地方にも、その勢力を広げて行った。
 
4.古墳時代:
 
応神天皇陵は土師の里に程近い場所にある。
この頃になると、土師氏の勢力は既に河内方面に広がっていたことになる。
 
この頃盛んに造られた墳墓は、前方後円墳である。
(朝鮮半島にも若干は見られるらしいが)日本独特といって良いこの形式は、なぜ生まれたのだろうか。
 
当研究所は、墳墓巨大化に伴う必然的なデザインであったと考える。
 
円墳を造るとしよう。
 
石室を造り、土を被せ、塚を形作る。

規模が小さいうちはよいが、大きくなると土を運び上げるのが大変な作業となる。
当然の対応として、資材運搬路(スロープ)を築くことになる。
 
工事の進行と共に徐々に傾斜を大きくしたスロープを築き、橇状の運搬具「修羅」で土を運ぶ。
スロープは墳墓を突き固める人足のアプローチでもあった。
 
墳墓を造り終えれば、スロープは不要となる。
 
撤去すれば良いのだが、大変な作業である。
完成形に寄与しない無駄な作業でもある。
 
そこで誰かが考えた。
スロープを生かしたデザインにしてしまえば良い。
 
スロープの撤去を止め、寧ろそれを補強する形で前方部を築いた。
作る方が取り去るより楽だし、楽しいのだ。
(材料は「土」で、只なのだから問題なし)
 
それは、現代の高層ビルを建設する際、屋上にクレーンを残す行為に似ている。
エンジニアの思考パターンは、一つ所に帰す。
 
5.修羅(しゅら)の話:
 
応神陵古墳が含まれる古市古墳群で、1978年に古墳時代の遺物「修羅」が発見された。考古学上の大発見である。
 
V字又はY字状の木材に穴を穿ち、巨石を載せて転子の上を引けるようにした運搬具が、修羅である。
 
修羅の名の由来については、定説はない。
通説に曰く、大石(たいしゃく)を動かす道具なので、「帝釈(天)を動かすといわれ
る(阿)修羅の名を取った」というのであるが、どうであろう。
 
いわゆる地口(だじゃれ)であり、こじづけだと考える。
 
「すらすら(進む)」という言葉がある。
又、金比羅船の唄では船が追い風を受けて進む様を、「しゅらしゅしゅしゅ」と表現している。
 
「すら(り)」とか「しゅら」とは、物事が滑らかに進む様を表す言葉であると考える。
 
そう考えると橇(そり)だけではなく、伐採した木材を切り出しのために滑らせる斜面のことを「しゅら」と呼ぶのも合点が行く。
 
6.土師ノ里に戻る:
 
當麻の地から北西に10キロほど進んだ「山向こう」が、土師ノ里がある藤井寺地区である。古市古墳群が点在する場所である。
 
ここには道真の伯母覚寿尼が住んでいた尼寺道明寺があるが、これは元は土師寺と呼ばれていた。
道真の号である道明に因んで、寺名を変えたものである。
 
道真を祀る道明寺天満宮とは元々一つであったが、明治の神仏分離令により二つに分かれた。
 
道明寺付近にはとにかく古墳が多く、いかにも土師氏の里として相応しい土地である。
 
千数百年の時を越えて、修羅が奇跡的に残っていたことは、それだけこの地で土師氏の活動が活発であったことを示している。
 
伯母が住んでいたこと等、道真と道明寺との密接な関係から考えて、菅原氏にとってもこの地が本拠地であったと考えて良いのではないか。
 
7.堺と土師氏:
 
道明寺を西に出て海に向かえば、程なく堺に至る。

堺もまた、土師氏ゆかりの町であった。
 
土師氏とは古代におけるエンジニア集団だった。
土木、機械、冶金、精銅・製鉄、薬学、化学等を研究し、実践する一族と想像する。

勿論現代の科学とはレベルが異なり、比較的単純なものであったろうが、その効果は決して小さくはなかった。
 
巨大な古墳を量産してのけていることからもその実力が推し量られる。
 
堺における鉄砲鍛冶、火薬精製の発展も、土師氏の伝統を抜きには語れない。
町の発展を支えた堺衆の主なメンバーは、土師氏の後裔である一族だったと考えている。
 
菅原家は土師の宗家に当たる家系で、それ以外の分家は部下として宗家に仕えていた。その分家集団、そしてその頭領を当研究所では「梅」と呼ぶことにした。
 
利休は宗家菅原家の血を引き、他の堺衆(の多く)は分家筋であった。
朝廷も利休の出自については承知していたのであろう。ゆえに禁中茶会に招かれたのだ。
天皇家と梅一族の関わりについて、当研究所は幾つかの仮説を温めている。それについては、おいおい語っていきたい。
 
8.堺商人発展の鍵:
 
・琉球貿易船が鹿児島廻りで堺に寄港した。
・種子島の火縄銃製造技術を習得し、早くから鉄砲の生産を始めた。
・生野銀山を開発し、大量の銀を輸出した。
・五箇山硝石を買い取り、独占的に販売した。
 
等々が、堺発展の要因として考えられる。
 
特に生野銀山開発が、土師氏出自を彷彿とさせて興味深い。土師氏は鉱脈を求めて各地の山に踏み入り、いくつもの鉱山を開発したのだ。
 
その例が生野銀山であり、信楽の隠し金山であったと思われる。
 
9.利休以前と利休以後:
 
利休出現の前後、土師氏一族はどこにいて何をしていたのであろうか。
 
利休以前に目を向ければ、菅原道真の死以降、平安後期から鎌倉時代を経て、南北朝、室町時代と続いていく。
 
利休以後はといえば、江戸から明治へと時代は流れていく。
 
史書に、この時土師氏が動いたという記録はない。
ないが、歴史の陰に土師氏がいたと当研究所では推測している。
 
今後は少ない手がかりを拾い集め、土師氏暗躍の軌跡を辿ってみたい。
 

これはすべて想像の産物である。