「朝鮮出兵の謎」 | 「藍染 迅(超時空伝説研究所改め)」の部屋

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小説家ワナビーの「藍染 迅(あいぞめ じん)」です。

書籍化・商業化を目指し、各種コンテストに挑戦しながら、カクヨム、小説家になろう、エブリスタ、アルファポリスなどに作品を投稿しています。

代表作は異世界ファンタジー「「飯屋のせがれ、魔術師になる。」。

1. 信長・秀吉の真意:
 
信長は天下統一の暁には、明、南蛮まで征服する積りだったと言われる。
秀吉も朝鮮半島に留まらず、明、天竺まで支配する皇帝になる積りであったと。
 
本心だろうか。
 
確かに、そう言う発言はあったのであろう。
 
戦時において、自軍の士気を高めておくこと、常に緊張感を持たせる事は、極めて重要である。
 
つまりはリップサービスと言う物だ。
 
「毛利や北条など敵ではない」
「儂は唐天竺も打ち従える積りだぞ」
 
まあ、その位の事は言うであろう。
 
しかし、秀吉は本当に朝鮮に攻め込んでしまった。
土地鑑もなく、言葉も通じぬ場所でどう戦おうと言うのか。
 
まさに暴挙である。
 
後世の史家は、或いは領土拡大欲のせいだと言い、或いは老齢による惚けのせいだと言った。
 
それだけには思えない。
 
侵略に突き進む「裏の理由」があったと考える。
 
「超説 千利休」では、それを有楽斎の陰謀であると指摘した。
 
今回は、朝鮮出兵に焦点を当て陰謀の内容を明らかにしたい。
 
 
いま時空を超えて、有楽斎の陰謀を暴く。
 
2. 秀吉の動機:
 
既に語った様に、利休一族の秘密を嗅ぎつけた秀吉は、自分に総てを渡す様利休に迫った。
 
先ずは金山の在処、そして「双龍」の秘伝である。
つまりは利休一族に、自分の配下になれという事だ。
 
利休を殺してしまっては元も子も無いので、脅迫は遠回しな物となった。
しかし、その分執拗でもあった。
 
茶器の好みでねちねちと虐めたり、身に覚えの無い売僧の罪を着せたり。
娘を側室として差し出せと迫ったのは色惚けではなく、人質を取る名目であった。
 
その悉くを利休は撥ね付けた。
 
山上宗二の処刑は拷問であると同時に、利休に対する凄絶な脅迫でもあった。
 
秀吉は不安だったのだ。
 
秀吉亡き後、万一利休一族が徳川や他の大名と組めば、金山の財源と双龍の威力によって、豊臣家を滅ぼすのではないかと。
 
天下の帰趨を利休が握ると言う現実を、秀吉のプライドは許容する事が出来なかった。
 
しかし、利休は秘密を明かさぬまま自ら命を絶った。
最早手懸りは無い。
 
絶望し掛けた秀吉に、耳寄りな情報が入った。
 
「彼の唐国(朝鮮)には、鉱石から強い鋼を作り出す技がある」
「彼の国には、城をも吹き飛ばす大砲があるそうじゃ」
 
秀吉はこの情報に飛びついた。
餌を撒いたのは、有楽斎である。
 
誇張はしていたが、朝鮮に優れた製鉄技術があった事は事実である。
利休一族の情報網から、有楽斎はその事を学んでいた。
 
3. 製鉄法の違い:
 
詳しい内容は省略するが、当時日本における製鉄法は砂鉄から鉄を取り出す「踏鞴(たたら)製鉄」であった。
 
鉄鉱石が少ない事と、鉄鋼精錬に必要な石炭を得られなかった事が、日本での製鉄法発展を妨げた。
 
一方朝鮮では、先端技術は地続きの大陸から伝わってくる。歴史的に「踏鞴製鉄」は殆ど行われず、いきなり溶鉱炉での鉄鉱石精錬法が普及している。
鉄鉱石も各地で産出するので、原料にも事欠かない。
 
兵器製作において、製鉄法の違いは致命的な差となる。
踏鞴で精錬した鉄は鉄元素同士の結びつきが弱く、大砲の砲身に使用すると、発射の圧力に耐えきれずに割れてしまうのだ。
 
後の話になるが、日本での洋鉄生産は幕末まで時を経なければならなかった。
 
もし、秀吉が目的を達して洋鉄と大砲製造技術を入手していたら、世界の歴史が変わっていたかもしれない。
 
4. 秀吉の勝算:
 
誰もが無謀と評する朝鮮出兵であるが、しからば秀吉の勝算はどこにあったか。
 
老いたりとは言え、秀吉は歴戦の戦上手である。
それなりの勝利方程式があった筈だ。
 
実際、秀吉は事前の情報収集を怠りなく行っている。
明国使節や対馬宗家等から、朝鮮の軍事的実力を可能な限り聞き出していた。
 
勿論中にはいい加減な情報もあっただろう。
宗家は秀吉と朝鮮王家の間に立ち、どちらにも都合の良い情報を伝えていた。
 
それにしても、複数の情報源から裏を取れば自ずから真実の姿が見えて来る。
 
恐らく秀吉が勝利を信じた根拠は、次の二点であろう。
 
・石高の違い
・鉄砲の保有量
 
石高は動員可能な兵員数を規定する。
秀吉は十六万人の兵を派遣したと言われるが、石高から割り出された朝鮮の兵員数は、それより遙かに少なかったものと考えられる。
 
鉄砲については論を待たない。
当時日本は、恐らく世界一の鉄砲保有国であった。
 
信長の功績と言って良い。
 
火力において、秀吉軍は圧倒的優位にあった。
 
事実当初は連戦連勝であった。
 
5. 秀吉の誤算:
 
負け戦が起こり始めるのは、遠征が長期化してからである。
 
秀吉軍の問題点は、概ね下記のようなものであったと想像される。
 
・朝鮮の広大な国土全体に戦線を拡大した結果、兵員に不足を生じた。
 
・占領地の農民が逃散し、農業等の生産活動や占領軍に対するサービス活動が途絶えてしまった。
 
・長期軍事行動のためには城や砦、宿舎等の建設が必要だったが、大工の人数に限りがありなかなか工事が進められなかった。
 
・外洋航海に適した船舶が不足しており、安定した兵站線を維持できなかった。
 
・更に朝鮮水軍に沿岸制海権を奪われた。
 
血で血を洗う内戦を経験して来た秀吉軍は、言わば戦争のプロ集団であり、まともにやりあえば朝鮮軍はもとより、明軍さえ敵ではなかった。
 
しかし、ゲリラ戦の場合、武器の優劣や兵員の練度が意味をなさない事がある。
 
水や燃料、食料などを調達する部隊、大工等の人足を狙い打ちされると、軍事行動に大きな支障が出た。
 
何よりも大きな問題は、兵糧と弾薬の補給である。
 
制海権を奪われては後方からの補給ができない。
食料は現地調達、つまり略奪を想定していたであろうが、予想に反して食糧備蓄が少なかった。
 
農業生産性の低い当時の朝鮮半島には、日本軍の長期軍事行動を支え得る食糧備蓄が存在しなかったのだ。
 
弾薬に至っては更に絶望的だった。
そもそも内乱が無い統一王朝である朝鮮では、大量の火薬を備蓄する必要がなかった。
 
せいぜい海賊や山賊への防備を整える程度で足りていたのだ。
略奪しようにも、備蓄そのものが存在しなかった。
 
6. 梅一族の暗躍:
 
それでも全般においては、秀吉軍は猛威を振るっていたと言える。
 
海戦では敗北が多かったが、外洋航海を前提とした船で沿岸航行用の小船と戦わざるを得なかった所に敗因がある。
 
火矢で帆を焼かれれば、忽ち身動きが取れなくなり、ただの標的になってしまったのだ。
 
更に追打ちを掛けた事件があった。
天正二十年(1592年)三月、明軍がソウルの秀吉軍兵糧所23カ所を焼討ちしたのだ。
 
実に1万4千石の兵糧が焼かれたと言われる。
 
手持ちの兵糧の大半を焼かれると言う、考えられない大失態だ。
 
文禄の役を破綻させたのは、この襲撃だと言っても良い。
あまりに見事すぎて、真実とは思えない。
 
梅一族が暗躍したに違いない。
 
敗戦続きの明軍に、そのような機動力などある筈が無いのだ。
 
火薬を利用した同時多発テロ。
まさに梅一族の真骨頂である。
 
兵たんを絶たれては戦争は継続できない。
秀吉は一旦講話を結ぶしかなかった。
 
6. リターン・マッチ:
 
慶長の役では兵站維持の困難さを悟り、秀吉軍は半島南部に戦線を集中した。
 
当然の戦略的判断であった。
 
後は、沿岸部で小型艦艇を量産し、朝鮮水軍の奇襲に備えさえすれば鉄壁の兵站ラインを確立出来たはずだ。
 
しかし、それは実現できなかった。
 
梅一族のサボタージュが邪魔をしたのだ。
船大工を殺してしまえば、船は造れない。朝鮮軍の振りをして奇襲を掛けたのである。
 
水軍内部にさえ、工作員を送り込んでいたかもしれない。
 
水に毒を混ぜる。
舵を壊す。
操帆索を切る。
火薬を湿らせる。
船倉に火を放つ。
 
船を沈める事など、造作も無い。
 
朝鮮海軍が連戦連勝する訳であった。
 
十分な補給を受けられず、秀吉軍は次第に追い込まれて行った。
 
目的の分からぬ戦いに士気は失われ、兵士の脱走が相次いだ。
病気で倒れる者も多かった。
 
そんな中、慶長三年(1598年)秀吉が死んだ。
 
これ幸いと、秀吉の死によって朝鮮侵略は終わりを遂げた。
 
引上げの際、遠征軍は大勢の朝鮮焼窯職人を連れ帰ったと言う。
それ程焼き物を珍重したのか。
 
そうではない。
 
製鉄技術者の拉致が目的であった。
 
現実に薩摩では、この時連れ帰った朝鮮人により高炉製鉄の技術が伝えられている。
(しかし鉄鉱石輸入経路が絶たれた為、洋鉄生産は発達しなかった)
 
信楽にも多くの「朝鮮陶工」が移住した。
彼らは、陶器だけを焼いていたのだろうか。
 
人知れず、高炉製鉄の技術を伝えたのだ。
それだけではなく、金銀の精錬法等新しい技術を梅一族にもたらした事であろう。
 
有楽斎が蒔いた種は、徳川の世を静かに生き続けて行った。
 

これはすべて想像の産物である。
 
【参考文献】:「秀吉の朝鮮侵略」北島万次 山川出版社