1. 千利休の謎:
信長を、そして有楽斎を語るとき、千利休を避けては通れない。
利休とは何者であったか。出自は堺商人。信長の茶頭。それだけの肩書きで、なぜ歴史に名を残せたのか。
筆者は、千利休とは偉大なるプロデューサーであり、フィクサーであったと、空想する。利休を語ることで、信長の本質に近づくことができる。いま時空の扉を開き、利休の謎に迫ろう。
2. 「利休」の号とは:
我々現代人の常識には、「千利休」という名が刷り込まれている。
しかし、本来の名は千与四郎、法名を宗易と号した。利休は居士号である。利休は、天正13年(西暦1585年)の禁中茶会に招くに当たり、正親町天皇が与えられた名前だといわれる。しかし、実のところは利休本人が用意していた名ではなかったかと思われる。いずれにしろ大切な名であるはずだが、その由来は歴史に残っていない。
利休本人がつけた名で、その意味を秘していたと考える方が自然である。利休とは何か。すなわち「離宮」である。
かの紫香楽宮に関わる血筋であることを、暗示していたのだ。利休が生まれた堺商人田中家の先祖は、信楽の山人であった。
代々信楽の隠し金山を守り抜くことが、役目だったのだ。堺商人となった田中家を通じて、信楽の黄金は少しずつ金に換えられ、山の民を支える財源となった。
やがて田中家が商家として大きくなると、金を売らなくとも十分な財源を生み出すことができるようになった。信長が天下統一への道を歩み出すと、「天下布武」の思想に共鳴し、信楽の黄金を携えて姿を現したのが、利休であった。信長に金を差し出すことで、何を得ようとしたのか。
3. 「楽」の思想:
堺商人としては、戦が続いて諸大名が武器弾薬を買い続けてくれるのは、ありがたいことである。
労せずして、いくらでも商品が売れるのだ。であれば、信長の天下統一は邪魔な動きということになる。
なぜ利休は信長に信楽の黄金を献上したのか。それは「楽」のためである。信長に「天下布武」という理想があったように、利休には「楽」という思想があった。
両者の目指すところが一致したが故に、利休は信長を全面的にサポートした。「天下布武」については、すでに語った。
ここでは、「楽」の思想について語ろう。楽市楽座、楽焼。楽とは自由であり、既成の価値観からの解放である。芸術の世界でいえば、ルネッサンスに相当する。ヨーロッパ人と接触があった利休は、ルネッサンスの何たるかを聞き知っていた。
文化人としての利休は、日本の芸術にルネッサンスをもたらそうと決意した。
ルネッサンス芸術は利休にそれだけの衝撃を与えたのである。利休は、一代の「数寄者」であった。
金儲けにはさほど興味はなく、趣味の世界に生きた男。
審美家といっていいかもしれない。しかし、審美家は一人では成立しない。
芸術家が自由に創作にいそしめる環境が前提として必要なのである。信長による平和は、利休にとってありがたい状況であった。
天下人となった時の信長は、芸術家を育てるパトロン役として最適だった。信長にとっての利休は、海外から最先端技術を導入するためのエージェントとして大きな利用価値があった。
堺商人との橋渡しにおいても、貴重な存在である。鉄砲の有用性、五箇山硝石の秘密、貨幣経済の効能、そして鉱山開発の重要性などを信長に教えたのは利休であった。
4. 「楽」の完成:
茶聖と呼ばれ、一般に「侘び茶」の創始者として知られる利休であるが、本人は「侘び」という言葉を使っていない。むしろ晩年近くまで、名品と呼ばれる茶器を珍重するなど、贅沢華麗な世界を楽しんでいた。その傾向が変わるのは、信長が本能寺の変で倒れてからである。いや、当研究所的にいえば信長が織田長益と入れ替わってからということになる。
ややこしいので長益となった信長のことを、有楽斎と呼ばせていただく。利休の審美眼と有楽斎の合理主義、その組み合わせが新しい世界観を生んだ。
利休と有楽斎のコラボが、芸術の世界にいままでにない精神性を加えたのだ。そもそも信長は、本能寺の変の際、天下の名器と呼ばれる茶器を多数持ち込んでいた。もちろんすべて灰燼に帰した。信長にとって珍奇な茶器など、どうでもよいものであった。「たかが茶碗一つに千金を費やすなど、愚かなことよ」内心、そう切り捨てていたことであろう。利休・有楽斎ペアが作り出した芸術に「楽焼」がある。
華美な装飾を廃し、手捻で素朴な味を生み出したものである。利休はこれを、信楽の窯に焼かせた。自分の好み通りに注文を付けた「利休信楽」と呼ばれる品々である。信楽といえば当研究所ではお馴染みの紫香楽宮があった場所であり、利休一族の原点と比定している土地である。しかし、「信楽」の「楽焼」とは出来過ぎていないか。
5. 「信楽焼」の由来:
そもそも紫香楽宮という名は、どこからきたか。「紫香楽」という文字を万葉仮名として読めば、「しがらき」ではく「しがら」または「しから」となる。「しがら」という言葉は耳慣れないが、現代でも生き残っている。
「しがら工」という言葉がある。斜面や土手の土砂崩れ防止のために、ネットなどを張る土木工事のことである。もともと「しがら(柵)」とは、「杭を並べて打ち、それに竹などをくくりつけて水止めや土止めにしたもの」である。転じて、「しがらみ」という言葉も生まれた。信楽一帯には、「しがら」とか「しがらき」と呼ばれる地域があったのであろう。
「しがらき」の「き」は「城」や「崎」の字で表される、「細く突き出た地形」を意味していたと思われる。すなわち、「しがらき」とは、「しがらのように蔦などが絡まりあった尾根」ということである。おそらくは、「滋賀」という広域の地名も「しがら」から派生したものであろう。「紫香楽」は「しがら」の音に慶字を当てたものである。「楽焼」を「紫香楽」で焼かせるに当たり、「しがらの楽焼」を表す文字として「信楽焼」という表現を、利休が発案したのだ。その後地名の方も、「信楽」と書き表すことが通例となった。つまり、まず焼き物の名が決まり、それによって地名の表記が定まったのだ。ちなみに、「信楽焼」には「信長の『信』」と「有楽斎の『楽』」が二つとも含まれている。
利休というよりも、有楽斎の好みによって焼かれた焼き物であることを暗示しているのだ。
6. 利休刑死の謎:
利休最大の謎はその刑死の理由であろう。信長なき後、秀吉に茶頭として使えたが、突如その逆鱗に触れて蟄居を命じられた挙げ句、切腹させられている。大徳寺三門事件や、僧籍にありながら利を貪った売僧の罪などが原因として挙げられている。どれも納得しがたい。死を与えるほどの罪とは、何だったのか。小田原攻めの陣中において、秀吉は利休の愛弟子山上宗二を鼻と耳を削ぎ落とした上に殺している。
秀吉に対して失礼な態度があったというのだが、それだけとは思えない。大軍を率いて得意の包囲戦を展開中であった秀吉は、北条家客分として小田原側に滞在していた山上宗二に自軍の強さを自慢げに語った。
これに対し、以前から秀吉とそりの合わない宗二は、つい余計なことを口走ってしまった。「御師様、あれを使いますれば殿下の大軍とて、簡単に追い落とせましょう」
「これ、滅多なことを口にするでない」これを耳にした秀吉が、目の色を変えた。「あれとは何か?素直に申せ!」秀吉は、山上宗二を拷問に掛けさせたが、宗二は鼻を削がれようとも利休一族の秘事を明かそうとはしなかった。
ついに沈黙を守ったまま、絶命した。秀吉の追求は、利休に矛先を変えた。
あの手この手で威圧し、秘密を吐き出させようとした。
が、すべて無駄であった。ついに利休に蟄居を命じ、力ずくでと火薬兵器の秘密を吐かせようとした。
しかし、命を脅かされようとも利休は秘密を明かそうとしなかった。
菅家秘伝「神雷」の秘密を守り抜いたのだ。その死も自ら命を絶ったものであって、切腹を命ぜられた訳ではなかったろう。
殺してしまっては、情報を得ることはできなくなるのだから。蟄居を命じられた堺の地に赴く日、利休は娘のお亀に手紙を渡している。
その内容は、「利休めはとかく果報のものそかし。菅丞相になるとおもへは」というものであった。菅原道真公と同じ立場に立てるのであれば、幸せなことだというのだ。ここでも利休が道真(菅丞相)に連なる一族であることが、窺いしれる。利休はまた、禅僧として遺偈を残している。
(偈とは、仏法の理をわかりやすく言葉にしたものである)「人生七十 力囲希咄 吾這寶剣 祖佛共殺 堤る我得具足の一太刀 今此時ぞ天に抛」実はよく意味が分かっていない。もちろんいろいろな解釈が存在するが、死を前にした言葉としては筋が通らないのだ。当研究所ではこれを、有楽斎と一族に対して後事を託した遺言だと解釈する。・「人生七十」:これは、齢七十にしてこの世を去る利休の運命を示し、信長が好んだ敦盛の一節「人間五十年」に引っかけたものだ。・「力囲希咄」:これが一番理解しにくい。「希」は「のぞみ」であり、「まれ」とも理解できる。「咄」は「はなし」とか「舌打ち」の意だが、そのまま「口を出る」と理解すればよいのではないか。実際の書では、「囲」の内側は「カ」と書かれていたようだ。
つまり、「力が囲いから出るのはまれなことだが、私はそれを希望する」ということである。・「吾這寶剣」:通常「吾がこの寶剣」と訳されるが、「吾は寶剣に這う」と読みたい。剣は山を表す隠喩としてしばしば用いられる。
すなわち、「吾は宝の山に仕える」と解される。金山守の一族だという表明だ。・「祖佛共殺」:「祖佛」は構文上主語の位置にあるので、「祖佛はともに殺す」と読むべきであろう。
祀る神、先祖ともに敵を殺すと解する。「道真公の御霊とともに、同胞よ秀吉を討ってほしい」・「堤る我得具足の一太刀」:得具足とは得意の武器ということでよいだろう。あえて「一太刀」とつけ加えているのは、「人たち」に掛けている。「自分の武器である一族の人々よ」ということ。「堤」の字は、「是の土」に通じ、土師氏の血筋を示すものだろう。・「今此の時ぞ天に抛」:「天」とくれば信長である。信楽の秘事を信長の一存に任せるという意味と、「望むらくは『力』を天に解き放ってほしい」という願いを込めている。他にも、心を許した大徳寺の古渓和尚に当てた文には、「白日晴天怒雷走ル」の言葉があったという。まさに必殺兵器「神雷」の行使を予言したものであろう。
7. 梅は飛ばず:
しかし、雷は走らなかった。
秀吉は暗殺されることなく、老衰で人生を終えている。「梅」一族が動かなかったのか、有楽斎が軽挙を止めたのか。
その両方が働いたものであろう。利休個人の恨みよりも、信楽の秘密を守り通すことの方が重要であった。有楽斎は、知略をもって直接武力の行使に代えた。
すなわち、朝鮮半島にすぐれた火薬技術と大砲を可能にする製鉄技術が存在することを秀吉に吹き込んだのだ。この情報に食いついた秀吉は、朝鮮出兵に突き進む。
秀吉の朝鮮出兵については、また別の機会に語りたい。結果的に、この戦争が秀吉の死期を早め、豊臣家の支配力を弱めることになった。
有楽斎の思惑通りである。単に秀吉一人を暗殺してみても、豊臣家そのものは生き続けたかもしれない。有楽斎は、「豊家支配」というシステムそのものを破壊して見せたのである。「有楽」と書いて、万葉仮名では「うら」と読む。
裏にいて自由なる者、それが有楽斎の生き様であった。
これはすべて想像の産物である。