「菅原道真の呪い」では、道真に呪術駆使能力があると信じられていたという前提で謎解きを進めた。
今回は、その「呪術」の内容を検討してみたい。
いま時空の扉を開こう。
当研究所的に道真の「陰陽道」を考察するなら、
①催眠術(的な暗示)
②心理トリック(数学法則を駆使した予言=数字当てとか、当たり障りのない占い)
③とどめの「黒子」
②心理トリック(数学法則を駆使した予言=数字当てとか、当たり障りのない占い)
③とどめの「黒子」
これらを組み合わせたものであったろうと考える。
特に③の黒子を「梅」と名づけて、使役していた。
陰陽師的にいえば「式神」である。
こっそりと「対象」の屋敷に忍び込んで、物を隠したり、あらわしたり。
内部事情を盗聴させたり。
陰陽師的にいえば「式神」である。
こっそりと「対象」の屋敷に忍び込んで、物を隠したり、あらわしたり。
内部事情を盗聴させたり。
まさに透破、乱破の類である。
「忍」といってもよい。
「忍」といってもよい。
ある日、道真はやりすぎてしまった。
知ってはいけない秘密を知り、知っているということを相手に悟られてしまった。
知ってはいけない秘密を知り、知っているということを相手に悟られてしまった。
相手とは、もちろん醍醐天皇。
昌泰4年(西暦901年)1月7日従二位叙任の日に、祝い酒に浮かれた道真がつい天皇の秘密を口走ってしまったのだ。
昌泰4年(西暦901年)1月7日従二位叙任の日に、祝い酒に浮かれた道真がつい天皇の秘密を口走ってしまったのだ。
その場は酔いのせいにしてごまかしたものの、道真は危険分子として排除の対象になってしまった。
「彼のものはまがものなり。人知れず、始末せよ」
という顛末である。
哀れ道真は太宰府で、非業の最期を遂げた。
しかし、道真なき後も密偵「梅」は、生き残っていた。
「道真は物狂いであった。死を与えてやったのは、慈悲であったろうよ」
道真の怨霊におびえながら、尚も自己の行為を正当化しようとする醍醐天皇の言葉を聞き、「梅」は怒りに身を震わせた。
「怨敵、許すまじ」
深夜、御所に侵入する「梅」の姿があった。
その背には、菅原家に伝わる火薬兵器「神雷」を縛り付けて…。
その背には、菅原家に伝わる火薬兵器「神雷」を縛り付けて…。
この時代の日本には、火薬は存在しないことになっている。
日本人が初めて火薬に出会った記録は、元寇の時まで時代を下ることになる。
日本人が初めて火薬に出会った記録は、元寇の時まで時代を下ることになる。
しかし、菅原家は土師氏の家系であり、中国の書物を研究し尽くした学者でもある。密かに火薬の製法を伝えていたのだ。
火薬の発明は6~7世紀頃といわれているし、道真の時代には中国で黒色火薬が用いられていた。
翌日の昼、「梅」の予想通り空はにわかにかき曇り、あたりは真っ暗になった。
突如闇を切り裂いて、稲光が走った。
突如闇を切り裂いて、稲光が走った。
その時である。
雷鳴にあわせて、清涼殿へと一筋の光が走った。
ド、ドーン!
清涼殿を斜めに持ち上げるように、すさまじい爆発が起こった。前夜、床下に仕掛けておいた火薬に誘爆したのだ。
一旦宙に浮いた建物は、ゆっくりと、しかし巨人の手で押しつぶされたように地面にたたきつけられた。
めりめりと音を立てながら、屋根がひしゃげ、柱が倒れていく。爆発をまともに受けた殿上人は、肉片と化して辺りに散乱していた。
「ああっ、雷じゃ!清涼殿に雷が落ちた!」
危うく難を逃れた醍醐天皇は、爆風に足下をさらわれたまま、腰を抜かしていた。
「道真か?道真の仕業か?」
離れた御所の屋根には、身を伏せてそれを見届けた「梅」の姿があった。
「天神秘術飛び梅…」
「匂い起こして候」
「匂い起こして候」
辺りには梅ならぬ、硫黄の香りが立ち込めていた。
これはすべて想像の産物である。