1. 道真怨霊化の謎:
菅原道真が死後怨霊として恐れられたことは、有名である。
それを鎮めるため、「天神」として太宰府天満宮をはじめとする各地の天神社に祀られた。しかし、道真は「左遷」先の大宰府で寂しく死んだだけであり、怨霊化するほどの「非業の死」とはいえないのではないか。
そこには、隠された事情があったはずだ。道真の残した「暗号」を手がかりに、道真怨霊化の謎を解く。
2. 年号の勘違い:
菅原道真は、自分の娘を嫁がせた斉世(ときよ)親王に皇位を継承させようと策謀した咎で、右大臣の地位を追われ、大宰府権帥に左遷された。
昌泰4年に起きたこの事件は、「昌泰の変」と呼ばれるようになった。一方、道真の左遷は延喜元年(西暦901年)1月25日になされたとされる。しかし、昌泰から延喜への改元は、昌泰4年7月15日に行われており、「延喜元年1月」とは、本来「昌泰4年1月」であった。
つまり、昌泰から延喜への改元は、道真の左遷を契機に行われたのである。
2. 改元の謎:
改元とは、天皇の交代や、吉事、凶事に際して行われた。昌泰から延喜への改元は、醍醐天皇治世下、「昌泰の変」という凶事を理由に行われた。
これは、改元の勅書にはっきり書かれていたらしいが、そのものは現存していない。(勅書を読んだ道真の、間接的な記述から内容が推測される)しかし、「昌泰の変」は道真個人が皇位簒奪を策したとされる、いわば個人レベルの事件であり、国家レベルの「凶事」というにはふさわしくない。改元までして避けようとした、朝廷の恐れる「凶事」とは何か?
3. 朝廷の恐れ:
道真の死後、朝廷は道真に位階、官職を追贈している。生前の最高位は右大臣で、左遷される直前の昌泰4年(901年)1月7日従二位に叙されている。道真の死は、延喜3年(903年)2月25日。延長2年(924年)4月、右大臣に復し、正二位を贈る。
正暦4年(993年)5月20日、正一位左大臣追贈。→(道真の霊)託宣により拒否
同年10月20日、太政大臣を追贈。なぜに、ここまで…。
4. 道真の祟り:
延喜6年(906年)、藤原定国死去。
同8年(908年)、藤原菅根死去。
同9年(909年)、藤原時平死去。
同13年(913年)、源光死去。
同23年(923年)、皇太子保明親王死去。(この年、延長に改元)延喜から延長への改元は、道真の怨念を鎮めようとしてのこと。しかし、それも効果なく、延長3年(925)、皇太子慶頼(よしより)王(5歳)死去。
同8年(930年)6月26日、清涼殿に落雷。藤原清貫(きよつら)以下5名死傷。
同年9月、6月の落雷を目撃し、ショックのため寝込んでいた醍醐天皇が崩御。
正暦4年(993年)、天然痘流行。→正一位追贈の原因となる。その他、日食(延喜2年(902年)6月1日)、月食(昌泰4年(901年)1月15日)、彗星(延喜12年(912年)7月)、地震、旱魃、洪水、火事など、凶事発生。
5. なぜ、道真は祟ると思われたのか?:
祟りといわれた関係者多数の死も、天変地異も、当時の医学や衛生状態、農業技術レベルからいえば、普通の出来事ともいえる。
それなのに、道真の祟りといわれるのは…。文章博士=言霊使い。そもそも、呪力があると思われていたのではないか。
だからこその、異例の出世だった。並の家系から、学識だけで右大臣に上ったのは尋常でない。
6. 暗号「東風吹かば…」の一首:
大宰府権帥に左遷された際、詠んだとされるあまりにも有名な歌。「東風(こち)吹かば匂い起こせよ梅の花 主なしとて春を忘るな」しかし、自宅の梅の花を惜しんだとされるこの歌、道真ほどの人物としては、いささかスケールが小さい。この歌は、左遷されようとした道真が、命がけで残した暗号なのである。日本は、「言霊の国」である。語ることは、現実を変えようとする力を意味する。
死後怨霊として祀られた道真が、無念の裡に詠んだ歌である。
この歌には、裏の意味があると考えることが自然であろう。いま時空の扉を開こう。
7.道真の呪い:
ポイントは、「主なしとて」の句。「梅の主」=「道真」と解釈されているが、果たしてそうか。
「主」=「主上」。すなわち、天皇と解すべきではないか。つまり、「醍醐天皇が亡くなる」ことを示唆している。では、「春を忘るな」とは、何の意味か?
ポイントは、「春」の一文字。「春」を分解すると、上部に「主」、その下に「人」、そのまた下に「日」の文字が現れる。
「主なし」で、「主」を取り去ると、「人日」が残る。「人日」とは、五節句の一つで「1月7日」のこと。
この日は、「人を死刑に処さない」日とされている。
古来中国では、1月1日を鶏の日、2日を狗の日、3日を猪の日、4日を羊の日、5日を牛の日、6日を馬の日とし、それぞれの日にはその動物を殺さぬこととしていた。1月7日の「人日」は、人を殺さない日としたのである。道真が、従二位に叙され(昇格し)たのが、1月7日。まさに「人日」。「春を忘るな」を漢文にすると、「勿忘春」となる。
「主なし」で、「主」を除くと、「勿忘人日」が残る。「人日を忘れるな」となる。つまり、「1月7日に、我を従二位に昇格させたことをないがしろにするな」。
「位に合わぬ左遷をするな」と、解釈することができる。さらには、「みだりに死刑をおこなうな」とも、とれる。大宰府送りは左遷にすぎないが、地方に追いやってから命を絶つという「裏技」は、よくあるパターン。
謎の死というやつである。「我を殺すな」と、いっていることになる。振り返れば、この歌のはじめに、「東風(こち)吹かば」とうたっている。「勿忘春」から「主」「亡し」で、「主」と「亡」の二文字を取り除くと、「勿心人日」が残る。
「勿心」を一字にすれば、「忽(こつ、こち)」となる。「東風吹かば」とは、「『こち(忽)』が現れたら」と理解できる。
「忽」とは、「ただちに、いるがせ(に)」という意味をもつ。
「忽人日」で「人日をないがしろにする」の意ととれる。
「梅が匂う」ことは本来の働きなので、「匂い起こせよ」とは、要するに「梅よ、発動せよ!」と、命じていることになる。そこで、「梅」とは何か?という話になる。梅の花は、五弁の花びら。図案化すれば、「五芒星」になる。
「五芒星」は、「安倍晴明」の紋章として、あまりにも有名。すなわち「陰陽道」の象徴である。ちなみに、晴明は延喜21年(921年)の生まれとされる。道真の時代から、そう遠くない。
道真存命中にも、もちろん陰陽道は存在した。菅原家は「土師氏」の出自で、元来「大陸系」の血筋といえる。
中国系の思想体系、呪術などを伝えていたこともありうる。生前、道真が「五芒星」あるいは「梅の花」をシンボルとして、陰陽道を行っていたとしたらどうか?
「匂い起こせよ梅の花」とは、「陰陽道の呪いを発動せよ」という言葉に聞こえないだろうか?まとめると、「我に手を出せば、陰陽道の力により醍醐天皇を呪い殺すぞ」という、恫喝の歌になる。時空を超えて、謎は一つにつながった。
8. 道真の最期:
そうして、道真は大宰府に送られた。さんざん、都に戻してくれと願ったが、聞き入れられなかった。
大宰府の暮らしは厳しく、屋根は雨漏りし、体に腫れものができ、脚気に苦しみ、腸の調子も悪くなった。死の間際、道真は「自分は、『精霊』を失った」と書いている。
「心が折れた」と解釈することもできるが…。もはや、「陰陽道の呪力」も使えないただの老人なので、慈悲をかけてほしいと、願ったのだ。そのすぐ後(延喜3年=903年2月25日)、道真はこの世を去った。
老衰、病気によるものか。はたまた、都からの刺客によるものであったか。無論他殺であったからこそ「怨霊説」が生まれたのだ。道真が「天神」になったというのは、「怨霊説」が先にありきの後付け説と思われる。
(醍醐)天皇まで殺したと信じられたからこそ、天神信仰が発生した。ちなみに、醍醐天皇は、歴代天皇のなかで唯一地獄に落ちたとされている。
これはすべて想像の産物である。(完)