9. そして、事件は幕を開けた:
その指令こそ、5月28日に詠まれた有名な光秀の発句である。
(ちなみに、この年の5月は29日までしかない)「時は今、雨が下しる五月哉」。信長討伐を前に光秀が己の決意を込めて、「いまこそ土岐一族の末裔である自分が、天下を治める」と宣言した句と解釈する説がある。
そんな馬鹿なことがあるはずがない。どこの世界に犯行前に声明を出すテロリストがいるか。「時は今」。文字を組みかえれば、「今日(きょう)」と「寺」である。
つまり、「京の寺」。本能寺のことである。
「五月哉」の「哉」は、「『戈』をもって攻めるが、『吉』」。
命令者は、「あめがした」=「天下」人の信長。
「下しる」とは、「下知」であり、信長の「命令」ということ。信長は、「自分が命じた『犯行』に及ぶ準備ができたら、この句を詠め」と、予め光秀に指示したのであろう。
光秀にしてみれば、「信長様の命ですることですよ」と、むしろ無実の証拠を残したことになる。信長が本能寺に到着したのは、5月29日。出陣準備を整えた光秀が、先の発句を為したと伝え聞くや、信長は本能寺脱出の支度を整え、悠然とその時を待つ。
翌6月1日、信長は本能寺で茶会を開いた。
変の当日、自分は本能寺にいたというアリバイ作りである。大きな戦いが起きないように、馬廻衆は下がらせてある。一方、光秀は1万3千とも伝えられる軍勢で、6月1日深夜、丹波亀山城を出発し、中国とは逆の京へ向かう。
本能寺に向かうのは、その一部で十分である。すでに本能寺を脱出していた信長は、一路安土城へ向かう。居残ったわずかばかりの信長の部下を追い散らし、光秀軍は手はず通り御殿に火を放って、証拠を隠滅する。
実際に光秀に同行した部下は、本能寺を襲ったとき、内部は無人だったと記録している。
(「本城惣右衛門覚書」)一方、光秀軍別働隊は、信長の嫡子信忠が逃げ込んだ二条御所を包囲した。但し、信忠には絶対に手を出すなと、指示されていた。
信忠と共にいた信長の弟、後の織田有楽斎こと長益は、光秀軍の囲みを破り、安土城への逃走に成功している。ならば信忠とて脱出できたはずである。狂言と知っていたから、二条御所に留まったのだ。
光秀軍に囲まれた信忠は手勢を率いて御所から打って出るなど、激しい抗戦を繰り広げた。すべて「やらせ」である。この時、隣屋敷の屋根から二条御所へ矢や鉄砲を撃ち掛け、信忠を討ち取った部隊があった。
これは、信長のシナリオにはなかったこと。
光秀も、与り知らぬことである。これこそ第二の犯罪であり、徳川家康の陰謀であった。信長連合軍にあって家臣ではなく、別格の存在だった家康は、イベントの見学者として京に招かれていた。
シナリオを知っていた家康は、「インサイダー情報」を利用して独自の陰謀を企てる。
すなわち、狂言を狂言に終わらせず、光秀を謀反人に仕立てて信長親子を殺害してしまうことである。
事後、光秀を討ってしまえば、信長連合軍ナンバー2として覇権は自ずから自分のものとなる。家康は軍勢こそ帯同していなかったものの、実は伊賀者特殊部隊を隠密裡に動かしていた。屋根の上から狙撃できたのは、伊賀者特殊部隊だからこそ。
率いるは、もちろん服部半蔵。
信忠暗殺の功績があったからこそ、半蔵は後世に名を残すまでに取り立てられたのだ。世にいう「神君伊賀越えの危難」など、でっち上げの絵空事にすぎない。信忠殺害の報を聞き、光秀は慌てた。
信長は身内に加えられた危害に対しては、激しい敵意で報復する。息子を殺されたと分かれば、光秀は一族皆殺しにされるであろう。ことここにいたって、「信長殺人事件」は単なる狂言では済まなくなった。光秀はひたすら狼狽した。
どうしたらよいのかその時、「悪魔」がささやいた。
10. 家康の陰謀:
悪魔は、「家康」という名であった。「このままでは、お前に明日はない。俺と手を組めば、天下の一部を分け与えよう」伝えたのは、もちろん服部半蔵である。
光秀は、この誘いに乗るしかなかった。
家康が軍を起こすのを待って、協働して織田主力を叩けば、織田家同盟軍を解体できる。
時を移さず、柴田勝家などの織田家諸大名を個別撃破すれば、天下をわがものとすることができる。幸い敵は分散しているのだ。
11. 秀吉の陰謀:
この犯行は、成功したのか?結果を見れば、明らかに失敗である。誰が、失敗させたのか?そこに、「第三の犯罪」がある。光秀と密約を結んでおいて、家康は急ぎ国に帰った。
本音は、国元で軍を起こし、取って返して光秀を討つつもりである。
これができれば、その時点で徳川の天下が成立していたはずなのだ。もちろん、安土に逃れた信長も、伊賀者を送り込んで暗殺する。
それで、第二の完全犯罪が成立するはずであった。それを妨害したのは、ほかでもない信長である。
信長は光秀が万一裏切った場合の「保険」として、事前に秀吉に真相を記した書状を送っていた。
だからこその「中国大返し」実現である。そうでなければ、6月3日に着いたという使者の到着が早すぎるのだ。ここで秀吉も、信長のシナリオを書き換えた。狂言としての信長殺人事件を知るや否や、信長の生死不明のまま、光秀討伐に突っ走る。
信長も死んでいるなら、光秀を討ち取った者が天下を受け継ぐ。
信長が生きているとしても、光秀を討ってしまえば出世争い上、大いに有利である。
そして、どさくさまぎれに信長を暗殺し、天下そのものを簒奪することまで計算したのだ。秀吉が「山崎の合戦」で光秀を破ったのが、6月13日。直後の6月15日、安土城で謎の火災が発生し、天主が焼け落ちている。偶然のわけがない。秀吉が安土を襲い、天主に潜む信長を討ったのである。「殿、ご覚悟を」
「是非に及ばず」そもそも、本能寺で死んだと思われている人間を殺したところで、それは犯罪にはならない。
第三の完全犯罪が完成した。光秀、家康の打算を狂わせたのは、あまりにも機を見て敏な秀吉の反応であった。
12.信長の陰謀:
だが、事件はそれで終わりではなかった。秀吉の手の者が信長だと信じて暗殺したのは、影武者であった。誰あろう織田長益(有楽斎)その人である。有楽斎は影武者としての務めがあればこそ、織田家当主である信忠を捨てて二条御所を脱出したのだ。「人間五十年 下天のうちに比ぶれば
夢幻のごとくなり...」影武者有楽斎は安土城天主で切腹の用意を調え、敦盛を舞った。秀吉の刺客に見届けられながら。信長本人は、入れ替わりに「有楽斎」としていち早く安土を脱出していた。
以後、信長は有楽斎として覇権を捨てて生きている。血で血を洗う覇権争いに、つくづく嫌気がさしたのであろう。自分のせいで息子を死なせてしまった悔いもあった。なぜ、秀吉、家康はこの入れ替わりを見抜けなかったのか?
いや、後々は気づいたのであろう。むしろ、信長の方から種明かしをしたかもしれない。二人が信長生存を知った後も討てなかったのは、「儂にもしものことあれば、すべての真相を記した手紙が天下に晒される手はずになっている」と、脅されたからだ。
手紙の所在がつかめぬ限り、信長には手を出せない。出せば、自分たちが謀反人として総攻撃を浴びることになる。信長はさらに、二人に自分の「身代金」を支払った。安土城から持ち出した、膨大な黄金の一部である。これがあればこそ、秀吉は大阪城に巨万の富を蓄えることができたのである。
家康にとっては、江戸幕府開闢の元手となった。長い目で見れば、戦乱を鎮め平和をもたらすという信長の悲願は、本能寺の変から遅れること33年、大坂夏の陣での家康軍勝利によって達成されたことになる。天下にとっては無駄な歳月であった。
13.有楽斎の後生:
有楽斎ほど不思議な武将はいない。関ヶ原では徳川につき、大阪冬の陣では豊臣方の中核にいて和平派として振る舞っている。
主戦派を抑えきれず、豊臣家の滅亡が避けられぬと見るや大阪城を退去し、再び徳川に仕えた。このとき嫡子頼長は、西軍の総大将に名乗りを上げた。あり得ない話だが、なぜか?自分が「信長の息子」と知っていたからである。結局有楽斎は浮き世を離れ、茶人として最期を迎えている。
隠居後も家康が捨て扶持を与えているのは、「元の主」に対する礼儀だったのであろう。有楽斎として生きた信長が、後の世のために何をなしたかは、また別の機会に語ろう。題して、「信長の黄金」。これはすべて想像の産物である。(完)