「信長殺人事件」(第2回) | 「藍染 迅(超時空伝説研究所改め)」の部屋

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小説家ワナビーの「藍染 迅(あいぞめ じん)」です。

書籍化・商業化を目指し、各種コンテストに挑戦しながら、カクヨム、小説家になろう、エブリスタ、アルファポリスなどに作品を投稿しています。

代表作は異世界ファンタジー「「飯屋のせがれ、魔術師になる。」。

6. 信長(犯人)の動機は何か?:
 
信長にとって、「天下布武」が戦いの動機である。

「天下布武」は、「天下に武を布(し)く」、すなわち武力によって天下を統一することと、解されている。
しかし、「布武」という言葉はほかに使用例がない。
唐突で、伝わりにくいこのスローガンを、信長はなぜ掲げたのか?
 
似た言葉がある。
「布教」である。
「教えを広める」に対して、「武(という思想&実践体系)を広める」ことを、「布武」と称したのである。
信長は、宗教を超越したパワーとしての「武」を、世に広めようとしたのではないか?
 
「武」とは、「国防+国家経営論」である。

いわば、民主主義を取り去ったアメリカ合衆国のようなものである。
 
一方で、「武」とは「周の武王」をイメージしたものではないか。

武王は、決して自らの領土拡大や栄誉を求めなかった。
乱れた国を救うために立ち、暴帝を倒したのち皇位についたが、領土は周りに分け与え、武器を廃し、戦いのない世をもたらした。
信長は官位を求めず、将軍になり代わろうともしなかった。自分を武王に置き換えていたのではないだろうか。
 
信長を悪逆無道の殺戮者と考える人もいるが、時代と相手を考えると、むしろ公平な軍司令官だったというべきである。
伊勢長島の「根切り」は、アメリカ軍によるベトコン制圧を彷彿とさせる。
そうでもしなければ終止符を打てない、泥沼のようなゲリラ戦だった。

自分は鬼となり、第六天魔王と呼ばれようとも、戦いのない世の中を実現しようとしたのである。
そこまで犠牲を払いながら、戦いの果てに信長は何を求めていたのか?
ある者は信長は将軍位に着こうとしたといい、いや、天皇になろうとしたのだと唱える者がいる。
神になろうとしたと、考える者もいる。
 
「信長の野望」とは、いったい何だったのか。
 
7. 「安土城」謎の天主:
 
伝えられる安土城天主の最上階は、古代中国の賢帝たちや儒教の偉人などを描かせ、そこに坐する人間の偉大さを表している。
そこに描かれた偉人たちは、すべて自らの栄華を求めず、周りから崇められた人々である。
信長は、この最上階で起居していたと伝えられる。
 
その下の階は、仏教世界である。
仏教世界の上に坐すとは、宗教さえも超越していることを意味する。 信長は最上階に坐して、宗教の束縛から自由であった。

しかし、上から3層目には、絵は描かれていなかった。
「空白」の意味は、何なのか?
 
「空白」の3層目には、キリスト教世界を描かせるつもりだったのではないか?
だが、イエズス会の協力を得られず、空白のまま終わったのだろう。
 
安土城の「安土」とは、仏教的な「浄土(清らかな場所)」に対して、「安土(安らかな場所、外敵の脅威から守られた場所)」を表している。
キリスト教的にいえば、「Paradise」のことだ。

自らが「武」という概念のシンボルとなることにより、「安土=地上の楽園」を実現しようとした。
逆説的ではあるが、絶対的な「武」を体現することで戦いをなくし、平和な国を作ろうとしたのだ。
 
「武」とは、「戈(ほこ)を止めるもの」なのである。
 
「武」は、「現世勢力」も「宗教」も超越した力であるから、何者も信長を害することはできない。したがって、官位も世俗的権力も必要としなかった。
「何者も信長を害することはできない」という観念を、具体的に証明しようとしたのが、「本能寺の変」という「イベント」ではなかったか?
 
すなわち、本来の目的は、討たれた後の「復活」を成し遂げることであった。

そう考えれば、空白の3層目には、「最後の晩餐」を描かせるつもりだったのではないか。
信長は、キリストの奇跡をも超越しようとしたのである。
 
そして、光秀はユダとして選ばれた。
 
8. 「信長殺し」のシナリオ:
 
実行犯は、明智光秀。
首謀者は、信長本人。
 
筋書きでは、天下の覇者とならんと欲した光秀が、信長を本能寺に襲う。
無防備といわれた本能寺滞在は、もちろん信長が設定した舞台装置。
 
光秀の直接的動機は、信長に虐げられた恨み。
事件直前の徳川家康接待役では、不始末があったと責められた挙句、役を解かれている。いわば、戦力外通告である。
 
そもそも家康を饗応したのも、光秀迫害の証人にするためであった。
また、家康を軍と切り離すことで、万一の反乱を防止することができる。
 
その上で光秀に向かい、「お前は使えないから、秀吉の応援にでも行って来い」と命じる。
秀吉が応援など必要としていなかったことは、信長もよくわかっていたことである。

すべては、光秀に反乱の「動機」と「機会」を与えるために、仕組んだことであった。
 
キリスト処刑におけるローマ軍の役割は、やはり朝廷だった。
事実光秀は、変の直後朝廷に「朝敵」信長征伐を報告している。そして報償を得た。
 
お膳立てを整えた後、6月2日未明に自分を襲えと、光秀に指示を与えた上で、信長は本能寺を事前に脱出。
陰暦の2日未明とは、すなわち新月。月明かりのない闇夜である。脱出など、どうにでもなる。

もぬけの殻の本能寺を襲った後、証拠を残さぬよう御殿に火をかける。
 
同じく京に滞在中の嫡子信忠については、余計な動きをせぬように別働隊でこれを包囲し、封じ込める。
これも狂言であり、信忠もイベントの参加者である。
 
そして、3日目の6月4日、信長は安土城で「復活」を遂げる。
復活の奇跡を知った光秀は、己の罪を悔いあらためて、信長の前に我が身を差し出す。
「武王」信長は光秀を許し、改めて付き人として、安土に住まわせる。
 
諸将には領国を分け与え、戦いの終結を宣言する。
織田共和国の誕生である。
 
自らは政から身を引き、信忠に後を委ねる。
 
そして、安土にこの世の楽園を、作る予定であった…。