棚の無駄話も、そろそろおしまいですが、書き漏らしたつまらぬ話を少し。

 三木町棚は、表千家の好みですが、これは裏千家も使うので、裏流の人にも馴染みの棚です。袋棚の進化系ですが、袋の開口部は、両引きの扉かケンドン式だったのを、引出しにしたのがミソでしょうか。桐材で再好みしたのを江岑棚と呼びますが、これも裏で使います。我が家にあるのは江岑棚です。

 表千家も裏同様、幕末の十代吸江斎の頃から、独自の棚を発案し、明治の十一代碌々斎以降も、棚の好みは続きますが、数は裏千家ほど多くはありません。表千家は、江戸時代からそうなのですが、台子や利休好みなどの古い棚を、材質や塗りを変えて再好みしたものが目立ち、新しい好みは、裏千家ほどではありません。碌々斎好みに、代表的な木屋町棚、糸巻棚、方円棚、惺斎好みに好文棚、糸巻透し二重棚、淡々斎と同時代の即中斎好みでも、好日棚、扇面棚、蓬莱卓、鱗棚など十一種ほど、而妙斎好みが壺々透し二重棚などくらいでしょうか。それでも、再好みを入れれば、明治以降の好みは、台子、大棚も含め四十近くはあると思います。表千家の席で見た木屋町棚、好文棚など三本足の棚が印象に残っています。下は木屋町棚。

 宗徧流は、流祖山田宗徧以来、好みものの棚はなく、古典的な六棚しか扱わないという決まりがあったそうです。六棚とは、及台子、紹鷗棚、袋棚、長板、丸香台、旅箪笥の六つで、丸香台は丸卓のことを宗徧流ではこう呼びます。もっともいわゆる丸卓のように、足が直立でなく、やや湾曲しているものが本来だとも言いますが、実際は変わり無いようです。ついでですが、宗徧流は、水指のことを他流と違い「水壺」と呼ぶので、紹鷗棚のことを水壺棚とも呼んだそうです。さて、この決まりも、大正末期に八代山田宗有が、流儀を復興してから、いろいろな棚を好んだので、なくなりました。宗徧流の古老であった川井穿波宗匠が、このことを「流儀の故実を破るものだ」と、憤慨した記事を残していますが(茶道の研究32号)、記事が書かれてから六十年以上経った現在、同流の人でも、こんな決まりがあったなど、知る人もいないようです。ちなみに川井氏は、宗有家元を「素人であった」と酷評していて、快く思っていなかったようですが、一般的には、中興の祖として評価の高い家元です。宗有好みの棚には、天板が円形、中板が三日月形の日月棚、相生棚、三級棚などがあります。宗徧流の棚で、その独特な形で、他流の人を驚かせるのは、先代家元の好んだ木瓜(もっこう)棚でしょう。足も板もない棚、強いて言えば高麗卓のように、天板、地板、足が一体化した形の変化ですが、その奇抜さには、私も最初見た時の強烈な印象が忘られません。

 名前の由来は、全体の形が、家紋などに使われる木瓜の形だからで、元々の由来は、古寺に残る鎌倉時代の輿に付いた飾り具の形だそうです。先代家元の好みには、他に三夕棚があります。溜塗りで三本足の温和な感じの二重棚です。

 大日本茶道学会には、先代会長の好んだ自分の名を冠した仙翁棚、謡曲から意匠を考えた高砂棚があり、朱塗りで正面に、桂離宮で使われている、市松模様の襖の意匠を嵌め込んだ桂棚が、華麗で拝見した時の印象は忘れられません。

 なお、大日本茶道学会では、津田宗及好みと称する洞棚を、真塗りから溜塗りに再好みして、流儀の独自の棚としているようです。

 その他、江戸千家では、流祖好みの米棚の他に、一元斎好みの雪輪棚、松尾流では、中板の三方に遠山の意匠の板がある山道棚などを拝見した覚えがありますが、私が見たことのある棚より、見たこともない棚や、名前や存在も知らない棚の方ががずっと多いでしょう。棚は、それほど種類も多く、ある意味、奥深いものです。また、今まで茶会で種々の棚は見ましたが、はっきり記憶にあるものが案外少ないのは、やはり茶道具としては脇役なのかもしれません。自己主張しない棚というのも、いいものなのかもしれません。

 棚の無駄話は、これで一段落に。

 萍亭主