思い立って、鎌倉の恵観山荘を見学して参りました。

 前々から、一度行ってみたいと思っていましたが、ここの苑内が一般公開されるようになったのは2017(平成29)年かららしいのですが、情報に疎い私がそれを知ったのは2019年くらいで、行ってみたいと思いながら、機会を得ぬうちに、コロナの時代になってしまい時が経ちました。今回、茶屋の内部見学が可能な日と、我が家のスケジュールが合ったので見学を申し込んだわけです。余談ですが、これも例の如く、ネット使用の申し込み。年寄りには優しくありません。

 さて、恵観山荘とは何か?ご存知の方が多いかと思いますが、一応、整理してみます。これは、一条恵観が、江戸時代前期、現地の説明板によれば、寛永から正保年間(1624〜48)に、京都西賀茂の広大な山荘内に建てた茶屋の一つです。一条恵観って誰だというと、後陽成天皇の第九皇子で、慶長10年(1605)に生まれ、幼くして、五摂家の一条家の養子となり兼遐(かねとお)と名乗りました。兄の後水尾天皇から関白に任じられ、次代の明正天皇に摂政として仕えました。一度退任して昭良と改名しましたが、次の後光明天皇の摂政に再任され、承応元年(1652)出家して、恵観と称し、その20年後67歳で死去しました。この人の木像は京都の東福寺芬陀院にあって、昔、見た覚えがあります。さて、山荘は次男の子孫醍醐侯爵家に受け継がれましたが、荒廃し、茶屋はこれだけが残りました。それが、中村昌生著「茶室百選」(昭和57年刊)によれば「昭和34年、鎌倉の宗徧流宗家山田邸に移築され、同39年、国の重要文化財に指定されている(中略)江戸時代の初期における貴族の茶室の遺構として貴重な実例である」とあります。この本では、建築時期を慶安5年(1653)頃と推定しています。タイトルは「恵観山荘止観亭」となっていて、止観亭は、宗徧流先代家元が名付けたようで、ちなみに、宗徧流の本席四方庵と並んで、つまり、宗徧流の茶室として紹介されています。平成22年刊の「新版茶道大辞典」も止観亭の名称は使っていませんが、他はほぼ同じ記述です。別の資料によれば、移築の監修は、如庵と同じく、堀口捨巳博士が行い、飛び石など、露地も再現されているといいます。宗徧流家元は、初釜にのみ、ここを使用するのが恒例だったそうで、かってそれに参加された故松本瑞勝氏(式正織部流)が「とてもいい茶室だ、貴方もぜひ一度ご覧になるといい」と言われ、宗徧流の古老H先生に頼んでみなさいとまで言われたのですが、これも機会を逸しました。現在は財団法人ですが、宗徧流の所有だったのは間違いないことです。しかし、今回ガイドの説明には「?」と思うことがありました。まず「この建物は、昭和34年に京都から鎌倉へ移され、昭和62年にここへ移築されました」というのですが、鎌倉のどこにあったか説明はありません。昭和62年は宗徧流先代家元が亡くなった年ですが。財団法人になったのはいつか、訊いてみると「京都から鎌倉へ移った時からです」という答え。後日、鎌倉に二代に渡り在住の茶家の方にに訊くと「そんなはずはありません、場所は昔からあそこで、動いたりしてません、あそこが宗徧流山田家の敷地内で、持ちきれなくなって、家元の本宅などを後方に残して、あの部分を手放されたのです。財団法人になったのも、その時からで、それから少しして公開するようになったんですよ」という話。その後、宗徧流の先生にもちょっと電話で訊いてみましたが、同じご返事でした。

 現在の山荘入口に立つ説明板は、上の写真のように 「戦後、京都から鎌倉に移築され」とすこぶる大雑把に書いてあるだけで、文化財の説明は、普通もっと年紀など細くこだわるものですが、これは珍しいことです。入口までの話に終わりましたが、次回続きを。

   萍亭主