戸田先生法要茶会で、本席の濃茶を頂いた後、もう一席、不昧軒の薄茶席にお邪魔しました。ここは、戸田即日庵の弟子、榎本宗白氏の席です。

 榎本氏は、娘の知人で、以前、我が家に見えたこともあり、面識があるので、お邪魔することに。榎本家は、宗白氏の曽祖母が、まだ日本橋茅場町にあった頃の即日庵に入門し、以来、祖母、母と、茶の湯の道を受け継がれ、宗白氏が初めて男性当主として、家の茶を継がれるわけです。宗白氏は、京都の裏千家茶の湯専門学校に学び、この学校の男子卒業生は家元関係に就職する人が多く、同期生で家元の業躰になっている人もいますが、宗白氏は東京に戻り、家を継がれる決意とともに即日庵の内弟子として、いわば街の茶の湯の道を選ばれました。茶人としては、まだ若手の部類ですが、淡交社など幾つもの茶事教室などを指導され、雑誌「なごみ」に、自家の道具を使って十二ヶ月の茶趣を連載されたり、目覚ましい活躍をされています。

 さて、床の軸は「安眠高臥対青山」の一行。この禅語は本来「閑眠」と書かれるのですが。これは「安眠」となっていて、安の字は、戸田宗安先生の宗名にも通じ、師に対して向かい合うような気持ちも込めて、これを掛けられたとか。筆者は。名古屋の茶人で、玄々斎の兄、渡辺又日庵です。戸田家が名古屋出身ということも含めて、この軸にされたのでしょう。花入は円能斎好み経筒籠という置き花入に、蓮、破れ傘などを入れられ、香合は平丸真塗に青貝の心経入りという、追善にピッタリの趣向。点前座は、道爺の達磨堂の文字入りの釜を、寒雉の風炉に据え、淡々斎好み渚棚の本歌に遠州高取の水指を載せられました。薄器が仰木政斎作の金輪寺で、松永耳庵の在判、箱に「晩年の傑作」とあるそうですが、この器の選択は、いかにも東京の茶家らしい。茶杓は、円能斎の「面影」の銘で、薄器と並んで、追善真向きの品です。主茶碗は九代大樋の飴釉で、仙叟遠忌の折に淡々斎が好んだ二十五の内というもので、替は御本茶碗で鵬雲斎が「今の心」、つまり念という銘を付けたもの、了入の黒平茶碗に、久世久宝の色絵などでしたが、中でも湖東焼の染付平茶碗が珍しく、いい出来でした。これは戸田先生が、武野紹鴎研究のほかに、井伊直弼についても研究され、著書もある縁から、彦根の焼物を使おうと思われたようです。即日庵お出入りの「みのわ」製の甘いお菓子と熱いお茶を堪能しました。正客を務められた金澤宗維氏が「追善の茶会なんて、子孫が代を継いでやっていかないと出来ることじゃない、業躰でも、追善がやれるのは、うちと戸田さんのところくらいだ。それに当主がやろうと思っても、お弟子さんたちが協力してくれなければ、やれることじゃない。追善が出来るというのはほんまに有難いことで、今日、回らして貰ったどの席も、先生に対する思いが溢れていて素晴らしかった」という意味のことを話されましたが、私は業躰の世界のことはあまり知らないのですが、二代、三代続く家はともあれ、四代にわたっているのは少ないのかも知れません。ちなみに金澤家も円能斎の弟子宗為以来続く業躰の家ですが、榎本家も業躰ではなくとも、そういう意味では四代続く茶の家で、今後も数少ない東京の代々茶家として、永続発展されることを祈ります。席を出ると、もう正午なので、残りの二席は失礼して、点心と志のお品を土産に頂戴して帰途につきました。

 頂いた品は、戸田先生の書かれた「雲悠々」文字の入った森岡嘉祥の茶碗、有難く使わせて頂きます。

    萍亭主