先の日曜日(6月23日)、護国寺で戸田宗安先生一周忌法要茶会(第二日)がありました。

 即日庵戸田宗安こと、前茶の湯文化学会副会長、戸田勝久先生が亡くなられて、もう一年余、月日の経つのは早いものです。ご葬儀にお伺いしたからでしょう、私の所へもご案内があり、私のような者が伺う茶会か、ちょっと迷いましたが、結局出席させていただくことにしました。10時前に受付にお伺いすると、今ならすぐ濃茶席に入れますからと、そのまま、寄付きの艸雷庵に案内されました。次の間の床に、戸田先生が今日庵名誉教授になられた折に鵬雲斎家元から頂かれた色紙、表に「安穏無事」と書かれ、裏に戸田先生宛の為書があるのを、表裏とも剥いで軸装に仕立てたものを掛けられ、前に炭道具を飾られました。香合は、名古屋城の古材で作った鯱で、これは戸田家が名古屋出身であることを意識されたのでしょう。淡々斎好みの黒い湊紙の釜敷に載せられています。達磨形炭斗は、戸田家の母方の祖である名古屋の茶人長井鼎玄斎が上京の折、玄々斎が贈ったもの。火箸と釻は、武野紹鴎所持で、紹鴎研究の第一人者であった先生を偲んでということは、言うまでもありません。羽箒は姫青鸞、灰匙は砂張と一級品が並び、灰器の隅田川焼は、先生が日本橋生まれなのに寄せてということです。艸雷庵の本席の床には、三玄院伝来、春屋和尚自画讃の睡布袋という大物が掛かっていました。艸雷庵奥の立礼に使われる部屋の椅子で、先客7人ほどと待ちましたが、定員の24人になるまで、ご案内がなかったので、本席月窓軒に入ったのは、40分後。正客は今日庵業躰金澤宗維氏で、既に入席されていて、席主と挨拶も済まされていたのでしょう、菓子が運ばれた後、出られた席主と正客の間には、ごく簡単あ挨拶があっただけで、席主(即日庵当代)は、連客の方に向かい、道具の説明にかかられました。以前、この方の席に伺った時もこうでしたが、正客との問答形式は一切取らず、一方的に道具の説明をされるスタイルで、言語明晰、大声で分かりやすいのですが、正直、少し茶の湯の雰囲気には欠けますが、大寄せはこの方式が良いという到達点なのでしょう。ご説明に依れば、本席の軸「安閑一老翁」は、江月和尚の筆で、寄付きの軸とともに、先々代宗寛一周忌追善に、宗安先生が使われたそうです。長次郎の赤楽平獅子香爐(慶入極め)と、竹を二つ合わせた銘「相生」の掛花入が飾られ、点前座の釜は古道弥の大黒庵文字入りが、今戸焼の風炉(白井善入作)に載り、水指は一燈箱の瀬戸耳付、銘「不聞猿」でした。耳が潰れたようになっているからとのこと。飾られた茶入は、武野紹鴎所持で、旧蔵者の益田鈍翁が挽家の字を書いているというもの。茶杓は戸田先生が十歳で初点前をされた時。祖父宗見氏が削り「初陣」の銘をつけたもの、茶碗は「ととや」と、先生作の赤楽茶碗が飾られました。点前に使われた茶碗は、主が宗寛氏作の黒楽、替が宗安先生作の赤楽で、席主のお話では、「茶碗作りは父の方が上手だと祖父がよく言っていた」ということで、確かに先生の作の方が薄く削られているようです。使用の茶碗とともに、空中信楽の蓮形蓋置(小香爐の見立てで、益田紅艶旧蔵)と、飾り薄器の仙叟好み十二ヶ月茶器の卯月(蓋裏に蛍の絵)も拝見に回されました。席主の言葉では、「今日は説明漏れはないかなと思います。昨日は大宗匠が一番にお見えになり、午後は家元の奥様がお見えになって、ガタゴトして忙しくて」ということでしたが、百一歳の鵬雲斎大宗匠、お元気なものです。なお、菓子は、無の文字の焼印が押された饅頭で、この字は、菓子商源太の先代が、宗寛氏に書いて貰い、以前にも使ったが、源太も代がか替わったのだけれども、この焼印を保管していたので、これにしたというご説明。茶は「憶昔」で、詰はどこだったか、忘れました。ただ、連客の中に、辻利のご主人が居て、席主が「辻利さんも美味しいんだけど、今回はこれで」と、挨拶されていたので、辻利詰でないことは確かです。

 改めて、戸田先生のご冥福をお祈りして。

    萍亭主