今回の犬山訪問では、犬山焼の窯元や骨董商には行きませんでしたが、前には訪ねた経験があります。

 私が最初に犬山に来たのは、昭和の終わりの、まだ私が現役の頃で、何か仕事で名古屋に行き、午後が4時間ほど時間が空いたので、慌ただしく訪問したのです。有楽苑に行く余裕はなく、犬山城を遠望し、城下町で、なんとかいう名水をボトルに入れ、和菓子を買い、

尾関作十郎窯を訪ねました。茶の湯に首を突っ込んで間もない頃で、当時は道具に熱を上げていたものです。あいにく当主(先代)は不在で、窯場の見学は断られ、併設の展示場だけ見ることに。小綺麗な新しい感じで、当時は陶芸ブームでしたから、盛んだったのでしょう。赤絵系を中心に、壺、茶道具、煎茶道具などが並び、朱竹を描いた茶碗が売れ筋だと言われたような気がします。皆結構な値段で、華やかすぎて、あまり食指が動かず、でも折角来たことだしと、赤絵菊文の丸香合を購入しました。それでも結構な価だったように思います。ところが、帰途の新幹線の中で、包みを開けてみると、え、粗末な土産物用の紙箱に入っていて、共箱でないのです。この値段の茶道具で、これは考えられない、稽古道具の値段ではないと思えるのですから。入れ間違いかと帰宅後電話をすると、箱はない、気に入らなければ、返品してくれという返事。もともと行った記念にと買ったようなもので、少し面白くなく、すぐ郵送で返品しました。

 平成5年ごろでしたか、二度目に妻と徳川美術館に行き、その帰途、犬山に有楽苑を訪ねた折は、翌日タクシーでニ、三軒の骨董屋を巡り、前回書いた古い犬山焼も手に入れ、明治村に向かったのですが、タクシーの運転手が、我々が骨董屋巡りをするのを見て、陶芸が好きなら、途中の窯元に寄らないか、自分は懇意なので、頼んで見せて貰えると言うのです。山本如仙という作家だと。純粋の犬山焼ではありませんが、八世乾山を名乗り、乾山写しや仁清写しを造り、東京でも多少は売られていました。行ってみると、豪邸というほどの構えではなく、白髪の痩せ形の老人が出てきで、不機嫌そうに「他人に窯を見せたりはせんのじゃが」と言いながら、それでも室内を通って、庭に案内してくれました。登り窯などはないだろうと予測していましたが、荒れ果てた庭の塀際に、等身大の楕円形のガス窯が立っているだけ。工房らしいものは見えません。「これで上絵付けをなさるんですか」「ここでみんな焼く」。造形や素焼、絵付をする場所が見たいと思いましたが、「今、宮内庁から頼まれたものを作っておって忙しいんじゃ」と不機嫌そうな老人に言い出しかねて、お暇。展示場もなく、玄関に飾ってあった壺を指して「これは百万じゃ」ということ。帰り際に、恐る恐る「先生は浦野乾女さんに学ばれたのですか」と訊くと、おや知っていたのかという顔で、「あの人は昔、よくこの地方に来ていてのう」と、それだけで不得要領に終わりました。乾山の代々については、以前このブログで触れたこともあると思いますが、京都系や江戸系で、人も違い、伝書の所持などで種々説がありますが、バーナード・リーチや富本憲吉を指導したことで知られる浦野乾哉(三浦乾也の弟子)は、乾山六世を名乗りました(たしか、乾山の養子筋の名跡を継いで、代を算えたんだと記憶します)。乾哉の娘、浦野乾女は画家、陶芸家として活動し、山本如仙氏は彼女に学んで、乾女は七世乾山とは名乗らなかった筈ですが彼女を七世と見て、自分は八世乾山を自称したわけです。佐野乾山事件が起きた時、贋作者の容疑者の一人として、山本如仙の名を挙げる説があったという記事を読んだ記憶がありますから、それなりの腕の持主だったのでしょう。如仙の作品は、今でも骨董界で、茶碗が三万から七万くらいの幅で取引されているようです。派手で、多少ゴテゴテした京焼風の色絵が多いようです。跡を継がれた方はないのではと思うのですが。

  萍亭主