成瀬家の茶道具が数点展示されている「犬山 城と町ミュージアム」には、お膝元だけあって、犬山焼がいくつか展示されています。

 犬山焼は、古くは18世紀半ばの宝暦年間に、美濃系の雑器を焼く窯があったという説もありますが、一般的には文化7年(1810)、島屋宗九郎という人が、京都粟田の陶工を招き、始めたのが最初と言われます。その後、瀬戸からも陶工を招き、天保6年(1835)、道平という名絵付師が来て、一挙に赤絵の技術が進んだといいます。また、犬山と乾山が音読みが同じということからといいますが、乾山風の雲錦模様を作るようになり、これと赤絵が犬山焼の特色となり、現在でも主力商品です。乾山写しは、乾山と書き銘したものもあって、贋物の中に混じっているものもあるとされます。普通は、犬山の印が押してあって、製品は、食器や日用雑器が主力でしたが、成瀬家の御用も務めて、高級茶器も作ったとされます。昔、四谷の美術商で、乾山写しの雲錦一双の抹茶椀を見たことがあります。かなり上手でいいものでしたが、バブルの頃で、三十万を越す値段で、手が出ませんでした。あれは、御用品だったかもしれません。下は、幕末頃の作品のようです。

 幕末まではかなり隆盛であったとされますが、明治維新で一挙に衰え、廃窯に追い込まれました。しかし、その廃絶を惜しんだ尾関作十郎という人が、明治16年に復興しました。作十郎は成瀬家の御用瓦師で、もともと焼物に縁があったのです。下の写真は初代作十郎の作品です。

 明治後期に後を継いだ三代作十郎は、名工と言われ、呉須や、磁器の製作にも成功し、アメリカへの輸出も試みたそうです。下は、三代作十郎の乾山風の雲錦の皿です。これは、乾山の書き銘になっています。

 尾関家が中心となって、昭和戦前になると、窯の数も増え、日用品が焼かれましたが、戦後は、茶道具もかなり焼くようになったと聞きます。尾関家は現在、六代作十郎で、その他、後藤陶逸などいくつかの窯があるようです。昔に比べ、磁器や半陶半磁が増えていると耳にしましたが、今回は窯元や道具屋には行きませんでしたので、詳しくは分かりません。

 前回、犬山に来た時、骨董店で、妻が江戸時代の品を格安で手に入れました。下がその写真です。

 日常雑器ですが、大きさがいいので、茶箱の茶碗に転用し、結構役立っています。見え難いですが、楕円形に犬山の印があります。もう一つ、母が持っていた蓋置があります。

 いかにも犬山っぽい意匠で、五角形に犬山の小さな印がありますが、共箱でないので、どこの窯のものか分かりません。母は昭和30年代、中京方面に旅行しているので、その時にでも購入したのではと思います。これは、磁器系で古いものではありませんが、まあ、犬山焼も二つもあれば、もう我が家には十分で、うっかり何か見に行って、買う気が起きたりすると、終活中の身に余計なことですから、今回は窯元も道具屋も敬遠しました。

    萍亭主