有楽苑を訪ねた後、犬山の城下町に出ました。犬山は江戸時代、成瀬家三万五千石の城下町で、国宝犬山城が現存するのはご承知の通りです。

 「犬山城」と「城と町ミュージアム」「からくり館」「どんでん館」の四箇所の入場券がワンセットになっているので、ぶらぶらと巡ることに。後ろの二つは、犬山祭で使われる、からくり人形を載せた山車関連の展示ですが、「城と町ミュージアム」で、茶の湯道具に遭遇しました。犬山城主成瀬家に伝わる道具です。

 茶碗は唐津、水指は犬山焼のようですが、茶入は、驢蹄(ろてい)という珍しいもので、名前を聞いたことはありますが、実物を見るのは、初めてのように思います。唐物で、驢蹄口ともいい、口の格好が、驢馬の蹄の形に似ているので、こう名付けられたというのですが、ロバの足を実際によく見たことがないので連想が出来ません。成瀬家は、初代城主正成(まさなり)が、徳川家康の側近で、老中職も務め、家康の懐刀と言われましたが、家康の九男義直が、尾張藩を創設した折、筆頭家老として派遣され、以後成瀬家は明治維新まで、尾張家付家老の地位にありました。余談ですが、徳川家の直参だったのが、いつのまにか陪臣の地位になってしまい、幕府からの多少の特別待遇は受けたものの、成瀬家としては不満で、独立した大名の地位を求めて、いろいろな動きが絶えなかったと言われます。さて、この茶入は説明文によれば、「玩貨名物記」に載る名物で、正成の次男之成の所有で、死後に遺品として三代将軍家光に献上されたが、家光がこれを之成の遺子に返却、その後、成瀬本家に伝わったとあります。帰京して調べてみると、新編茶道大辞典に「成瀬正成」の項があり「玩貨名物記」によれば、三つの名物を所持しているとし、その三つとは、驢蹄茶入、牧谿の達磨などの三幅対、小倉色紙(右近の和歌)であると書かれています。ただ、成瀬正成がどの程度茶の湯をしていたのかは、何も記述がありません。茶人系譜を見ても、正成以下、成瀬家の人は誰も見えません。ただ、松平不昧の「古今名物類聚」には、成瀬隼人正所持として肩衝茶入「堅田」(現在香雪美術館所蔵)が載っており、他の大名家同様、名物茶器を所有する習慣があったのでしょう。ミュージアムには、茶会記(書留帳)も展示してありましたから、

意外に茶会も行われたようで、帳面は小さいので、よく読めませんが、宗和の茶杓などを使っているようです。一方、驢蹄茶入については、山上宗ニ記に「天下に二つの珍しきもの」とあり、大正名器鑑には、一つだけ紹介されていますが、これは鴻池家に江戸時代前期から伝わったもので、犬山のものとは違います。茶道大辞典には、驢蹄の項目に「驢馬の蹄に似て甑の上端から捻返しがラッパ状に開いた形のものをいう。胴は壺形と樽形の中間をなす」という形状の説明と共に「名物として、成瀬・紅屋・宗半・中屋・道純などが知られている」とあります。この「成瀬」が、この茶入なのでしょうか。ともかく、思わぬところで茶入の勉強をすることになりました。

   萍亭主