明治村では、例年四月か五月に、明治村茶会というのを催しているそうです。

 勿論、コロナ流行の時は中止で、一昨年から再開された模様、濃茶一席、薄茶二席に点心席ということで、席主は各地の美術館や一流どころの宗匠と大物ばかりという話。濃茶には、前回書いた亦楽庵が使われ、坐漁荘が寄付きらしい。薄茶が学習院長官舎、もう一席はどうも立礼か野点のようで、東松家住宅、芝川又右衛門邸、聖ザビエル教会などの施設が適宜使われるようです。会費は二万五千円だそうで、今回たまたま明治村内で出会った女性連れとの会話で、この茶会の話が出た時、「今年行きたかったんだけど、高価過ぎて行くの諦めた」と話されていましたが、無理もない。余談ですが、最近物価高とともに、茶会の値段がどうも高価になってきたようです。さて、坐漁荘は、元老西園寺公望が、興津に建てた別荘で、亦楽庵の間近にあります。ガイド付きで内部に入れるので、一覧しました。

 目立たぬところに贅を尽くした素材を用い、大正当時の建築としては、優れた耐震性、防犯性を持つということですが、茶室はありません。西園寺公望は、当時の数奇者茶人の茶会記に、非常にまれに、客として名が出てくることはありますが、それほどの茶の湯趣味はなかったようです。一階の玄関を入ってすぐの、二間続きの和室が、寄付きに使われるようです。上の写真の書院風の床のあるのが上の間、それと下の間で、寄付き風とか、茶の湯らしさは別にありません。

 二階が、大変見晴らしがよく、西園寺公がお気に入りだったという二階広間の方が、琵琶床のある床の風情といい、多少茶の湯っぽく、ここを寄付きにするといいのにと思うのは、余計なお世話でしょうか。さて、薄茶に使われる学習院長官舎もガイド付きで見学。

 ここは、明治後期に、乃木希典が学習院長に就任の折、建築されたもので、玄関から入ったすぐの部分は、公的空間として洋室づ造りで、応接室、執務室、会議室などからなり、奥は私的空間で、和室造りになっています。入ってすぐ、十畳と六畳の二間続きの和室が、茶席になるようで、縁側があり、逆の廊下の反対側に、水屋になるだろう板敷のスペースがあります。元は納戸か何かでしょう。和室に炉は切ってあるようですが、勿論、後年のもので、この和室は元来茶室ではありません。主人の居間、茶の間などに使われたもので、二階も全く同じ間取りだそうで、そこは寝室だったと思われます。日本の古い家屋は、こういう二間続きの空間が、必ずと言っていいほどあり、間の襖を取り払えば、大広間になり、炉を切るなり、風炉を置けば、簡単に大寄せ用の茶室に変身出来ます。寺の書院とか、神社の応接間などもそうで、現在大寄せに使われる空間では、元々茶の湯専用に作られた広間の方が少ないだろうと思います。昔の日本人の生活は和室中心であり、茶室がなくともちょっと手を入れれば茶室になる、被きの間とか、鎖の間と呼ぶような本来の茶の湯の広間でなくとも茶室でない茶室で十分なわけです。日本人の住生活の変化が、茶の湯を日常から遠いものにしているのは間違いありません。

 明治村は、広すぎるので時間が足りず、明治村茶会で使われるという他の施設は見逃しましたが、立礼で使うということは、広い洋間や板敷、ホールなどを使えば、それなりの茶の湯空間は作れるので、又そこが立礼のいいところでもありますから、広い場所ならどこででもという感じでしょうから、見逃しても、そう残念がることはないかもしれません。

   萍亭主