例年通りの暑さがやってきて、茶の湯どころではなさそうですが。

 先日、ちょっと旅をしてきました。この年齢になるまで、見る機会がなかったので、鵜飼というものを見ておこうと出かけたわけです。

 茶の湯とは関係ないので、鵜飼の件は省略しますが、岐阜城(金華山)や岐阜大仏(正法寺)も見物して、翌日、せっかくここまで来たのだからと、犬山の明治村に寄りました。ここは昔、一度来訪したことがあるのですが、その時には、もう移築されていたはずなのに、気がつかず、訪れなかった茶室があるので、今回は覗いてみるかと。観光ブームの中、ここは混雑しておらず、修学旅行が二組ほどいても、広大なだけに散らばって、どこも混雑していません。珍しく、外国人の影も殆どなし。さて、お目当ての茶室に行ってみると、なんと、露地門の前に、施錠されて立ち入り禁止の札が掛けられています!ご承知のように、明治村の建物は、自由にか、時間を決めてガイド付きでかで、中に入れてくれる所がほとんどで、中に入れなくても、開口部から中を覗けるようになっていて、建物の側にも近づけないというのは異例です。

 さて、この茶室は「亦楽庵(えきらくあん)」といい、京都の医家、福井恒斎が、明治10年頃、京都市松原北町の自宅に建てたもので、本来は本宅の棟続きであったが昭和42年に本宅から切り離されて、更に45年に明治村に移築され、平成15年に有形登録文化財になったようです。福井恒斎は、明治宮廷の侍医を二度にわたって務めるなど、医学界では、それなりに有名のようですが、茶人としては一向に聞こえません。この茶室も、いわゆる名茶室として、その道の本や辞典などに取り上げられたこともないと思います。文化財指定は「規範的建造物として」ということらしいのですが。資料には「又隠の写し」とか「利休四畳半本勝手」とかあるのですが、平面図がないので、よくはわかりませんが、一間の引き違い障子の貴人口があり、そこから室内の狭い土間に降りられるようになっていて、土間は開口(雨戸だけある)で、露地に繋がっており、ネットで一枚だけ見つけた内部写真だと、どうやら道庫も設けられていないようなので、又隠の忠実な写しとも言い難いようです。写真の二重切り妻屋根の下あたりが水屋らしく、全体の大きさは八坪強というところのようです。中には廊下もあるらしいのですが、水屋は案外窮屈でないのかもしれません。例年四月頃行われる明治村茶会では使用されて、中に入れるようですが、茶室というものは、外観だけ見るのは、ほとんど意味がありません。入れずとも、中を覗けて、構造を見ないことには、その茶室の面白さや独自性、特徴など全くわかりません。そういえば昔、ツアーで「栂尾高山寺の高橋箒庵が作った茶室遺香庵」も見学するという表示があったので、参加してみたら、塀外から外観を遠望、見学するだけだったので、詐欺だと憤慨した経験がありました。今回は内部公開とも何とも謳っていないのですから、怒るわけにはいきませんが、ちと残念な気持ちです。ちなみに福井恒斎は何流の茶人だったのかもわかりません。ただ、明治十年代は茶湯の衰退期の絶頂だったとよく言われますが、家元や職業茶人以外の、趣味でやっている数寄者たちには、こういう茶室を建てて、のんびり茶の湯を楽しむという人も存在したんだという、一概に茶の湯のもっとも行われなかった時期とも言えないのかなという感慨を深くします。

   萍亭主