四月末から五月と、茶事に付き合って少々疲れて、それに面白い茶の湯の話題もなく、ブログを書くネタもないので、こぼれ噺も書かずにおりました。

 考えてみると、このブログももう六年目。ネタがなくなるのも当然で、特に老齢になって目が衰え、本もよまず、新しい情報に触れることが激減し、昔のように出歩くこともなくなり、物を体験することがなくなりました。日常も、同じことの繰り返しで、例えば茶室の床も、月が変われば例年通りの軸に掛け替えるだけで、新味のある何かをしようという気にもならない。怠惰な日々を送るだけです。そんな中、久しぶりに茶会に行く機会に恵まれました。このブログを読んでいて下さる方が、ある情報をお寄せくださったのです。以前このブログ(2020年11月19・20日)で、宗鎮流(三谷流)という流派について触れ、現在どうなっているか知りたいと書いたのですが、その流儀の席がかかる茶会があるという情報です。最近も上田宗箇流について書いた折、宗鎮流にもまた少し触れたので、お目に止まったのかもしれません。もう一度、簡単に整理しますと、この流儀は、表千家六代覚々斎原叟の弟子三谷宗鎮を流祖とし、広島浅野家の茶道役を務めたことで、広島地方を中心に栄えましたが、明治維新後衰え、三谷家の血筋は昭和で絶え、弟子筋が家元引次として白萩会という組織を作っていたという記録までは知っていたのですが、平成以降の状況がわからずにおりました。私の高祖父が、広島藩士で宗鎮流をやっていたらしいので、関心があったわけです。さて、その白萩会が、茶道会館での茶会で一席持たれるので、興味があれば、行ってみたらというご親切なおしらせ。行ってみたいと思い、メールでやり取りの上、さらにご親切なことに茶券の手配までして下さったので、有難く妻と二人で参上しました。高田馬場の茶道具屋さん主催の会のようで、四席の中の龍庵が、宗鎮流の担当。十時前に着いたので、最初の席にギリギリ入れて頂くことが出来ました。ご席主は小柄な老女性、お話の中で分かったのは「三谷流」と、仰ったので、お流儀では、宗鎮流ではなく三谷流が正しい呼称のようです。それと「家元がおらず、家元引次ということでやっている」というお話でした。ただ、お席主自身が家元引次なのか、会の一員なのかは判らずじまい。お正客をされたご婦人は他流の方のようでしたが、流儀のことについては、特にご質問やお話もなかったので。お点前は若い男性がなさったのですが、千家流と特に変わった点はない、帛紗捌きにしても、表千家同様、塵打ちをし、畳み方は裏千家とちょっと似ているようにも見える。足の運びは表千家と同じ。特段、さらさらとしているわけでもなく、そうひどく仰々しくも見えない、まあ普通というところでしょうか。会記の書き方が、花入、花という順番で、茶器、茶碗、茶杓の順で、建水、蓋置と続くのは表千家と同じですが、蓋置だけ、一段下げて書いているのが独特のようです。その道具組は、軸は「臨機応変」という一行で、これは初代宗鎮が、こう書いた碑があるそうで(どこにあるかは聞きもらしました)、それに因んで、この茶会のために書いて貰った軸とのこと。筆者は、日暮里の日蓮宗本行寺の住職だそうで、どうやら、この寺が、現在後援者の一員のようです。ついでですが、この寺は、江戸時代月見の名所で知られたところの筈です。花入が五代家元不朽斎宗鎮作の太く大きな竹の置花入、茶杓が三代家元水庵宗鎮作の銘「泉」で、これも太くたくましい感じ。香合が、家元代々に伝わるという丸い鼈甲製の富士が描かれた素敵なもので、以上三点が流儀らしい道具というところでしょうか。他は表千家好みの三木町棚が使われ、高橋敬典と鍋谷友賢の切り合わせ風炉釜、万古焼の安南写し水指、棗が道場宗広の竹林蒔絵。主茶碗が九代大樋長左衛門の飴釉、替が京焼の祥瑞写しで橋に川の絵、蓋置が白井半七の水面。お菓子が「雨上がり」という銘で、茶杓以下、水に縁のある物を心がけられたのかもしれません。流儀の道具以外は、忌憚なくいうとやや平凡ですが、龍庵という小間風でもあり、広間風でもある侘び席においての取り合わせとしては、中庸を得たと言っていいのかもしれません。続きは次回に。

   萍亭主