前回の続きですが、上田宗箇流の歩みは、以下のようです。

 流祖上田重安こと宗箇の歿後、旗本となった長男重秀は、江戸白金に菩提寺重秀寺を建立し、妙心寺派のこの寺は、今も存続しています。この系統は茶の湯とは何の関わりもなかったようです。広島藩の家老職としての家を継いだ次男重政は、茶の湯を嗜んだといい、この血統が、今の家元に繋がっているわけです。ただ、武家茶人の家は、小堀遠州でも、片桐石州でも、細川三斎、織田有楽でもそうですが、子孫が必ず全員、茶の湯に堪能とか、関わるわけではありません。茶好きの殿様が出る確率は、やや高いかも分かりませんが、江戸時代は、いわゆる家元というような認識は、自他共になかった筈です。そこで、宗箇の茶の湯は宗箇の弟子、野村休夢に引き継がれました。この人が、茶の湯師範預りという職に任じられ茶の湯を取り仕切り、伝授をすることになります。そして、この休夢の子孫野村家と、弟子の中村家が、交互に、茶の湯師範預り職に任じられて、明治維新まで、その制度が続きました。宗箇流という名前も、この師範預りの家によって唱えられたようです。維新後、野村、中村両家とも血筋が絶え、その後二代にわたって門弟が、伝統を継承しましたが、最後の人が昭和30年に歿し、上田家十五代当主の元重(宗源)氏が、茶道師範預りから返却されたという形で家元を名乗り、流儀を立ち上げるようになります。このパターンは、武家茶道では他にもあることで、鎮信流の松浦家は、豊田という茶の湯預りの家が流儀を伝えていたのが、維新後、当主松浦心月が茶人として活動し、子孫が家元化して行ったのが早い例で、香道を兼ねる安藤御家流茶道なども、茶の湯預りから受け継いで、戦後に家元化しています。片桐家や織田家も、血筋が家元として祭り上げられたのは戦後のことです。さて、上田家が、財団法人茶道和風堂を立ち上げたのが、昭和54年といいますから、まだ半世紀も経っていません。現在の本拠地、広島市郊外にある、書院、広間和風堂、小間遠鐘など、上田宗箇の広島城下の上屋敷にあったものを復元したという施設も、昭和50年代の建築ですし、今の家元が、まだ二代目(上田家十六代)というわけですから、組織としては、まだまだこれからの流儀でしょう。広島では、江戸時代には、表千家系の宗鎮流が栄え、商家などではこちらの方が盛んで、藩内の武士階級にも一部浸透したと言われ、宗箇流が、どの程度の地盤を得ていたかわかりませんが、広島でも今でも一番のシェアとは言えないようです。東京では、男爵家であった関係でしょう、霞会館(旧華族のクラブ)と、前述の義秀寺に稽古場があり、京都や大阪にも一箇所づつ稽古場があるようです。どうせ習うなら、家元のところで習いたいと問い合わせたら、紹介者がなくては駄目と断られて、広島市内のカルチュア教室の稽古場を紹介されたという話を聞いた記憶がありますから、そこは家元の権威というものかもしれません。近年、上田宗箇流に陽が当たったのは、2023年、広島市でサミットが開かれた折、各国首脳夫人を、岸田首相夫人が招待して、和風堂で宴席を開き、家元が薄茶を振る舞ったということです。安藤御家流の家元も招かれて、聞香も行われたようで、ちなみに、この日の料理は茶懐石はなく、豪華な宴会料理だったようです。千家系のように大きな宣伝組織があると、もっと話題になったのでしょうが、一部ニュースで流れただけで大きな話題にならなかったのは残念ですが、今後、この流儀が、どう独自性を保って発展してゆくのか、期待するとともに、この流儀の茶会を見る機会があればと思います。

   萍亭主