私の経験では、茶事の時、亭主も客も、かなり緊張している状態が、ほとんどであるように思えます。

 この前、初めて亭主をなさったNさんが「最初に席に入って、挨拶を始めようとする時、緊張して、顔が引き攣ってるのが、自分でもわかった」と述懐されていましたが、初体験で無理もありませんけれど、経験のある人でも、緊張する人ばかりのように思えます。やることも多い亭主は、失敗しちゃいけない、複雑な手順を忘れないようにという気持で緊張するのでしょうが、客の方は、ただご馳走になればいいだけなんだから、もっとリラックスしていい筈なんですが、これもガチガチに緊張していて、炉の茶事なら、炭点前が終わり懐石が始まる頃に、やっとほぐれてきて、アドリブも出てくるというのが通常です。中には、懐石になっても客同士全く無言で、緊張しきった様子で箸を使っているなんてこともあり、禅坊主の食事のような修行の場じゃないんだから、会話をして下さいと促したこともありました。やはり、客も亭主も、非日常の世界に踏み込むという緊張感があるからでしょう。茶席という舞台に上がる前の、いざという緊張感は必要なものなのでしょうが、上がってしまえば後は楽しむだけというのが理想形かとも思いますが、言うは易しかもしれませ。

 昔から、茶事とは大変緊張するものという、こういうう話があります。江岑宗左(千宗旦の三男)の書き残した事ですが、ある時、千少庵(宗旦の父)が、高山右近(利休七哲の一人)を茶事に招いた。そこに宗旦も居合わせたのですが、宗旦が見ていると、右近は、露地口で新しい十徳に着替え、準備を整えて、いざ入ろうとして、手が震え、顔色が変わり、緊張しきった様子になった。宗旦はそれを見て「茶の湯大いなることと感ぜられ候」、茶事とは大変なことなのだと悟ったというのです。宗旦は、右近より25歳の年下で、この時は連客ではなく、半東なり勝手方なりで居合わせたのでしょう。高山右近ほどの茶人でも、茶事ということになると緊張するのであれば、我々クラスが緊張するのは当たり前かも知れません。ちなみに、この話、千家系の解説書などで、これは亭主が少庵という利休の後継者の偉い茶人なので、それで右近が緊張したのだという解説をする向きもありますが、別にそこまで少庵を持ち上げる必要もありますまい。確かに、偉い人の前に出ると緊張するというのは、茶の湯に限らず、人間の常で、池田輝政でしたか勇猛な武将が「自分は天下に怖いものなどなにもないが、ただ利休の前で茶を点てる時だけは恐ろしく感じる」と言った話もあり、我々でも、仮に家元にでも招かれたり、招いたりしたら、普通以上に緊張するだろうとは思いますが、右近の場合、素直に解釈して、当時の人にとっても茶事は一期一会の独特な緊張感を持つ場だったと思うべきでしょう。

 つまり、結論として、茶事で緊張するのは自然なことで、またそういう緊張感が生じるからこそ、茶事は面白い。日頃のダラダラした緊張感のない環境の延長ではなく、ややこしくても面倒でも、非日常の緊張感を味わうことが、面白さの根源ということでいいのでしょうか。続きは次回に。

  萍亭主