連続二回の正午茶事が終わって、亭主を務められた方たちの感想は「面白かった、やって良かった」ということで、お客様も押し並べて「楽しかった」というご感想です。

 もちろん、それは結構なことですし、そうあらねばならないのですが、ふと別の観点から考えてみると、不思議な気もします。一体、準備から含めれば、あんな厄介で大変なことをやって、どこが面白いのか。お客の身になれば、普通に飯を食べるのに、なんで、ちまちまと面倒臭い手順で食べるんだという見方も出来るでしょう。ま、それは、茶の湯に関わりのない男性などが、よく口にする「なんでお茶一杯飲むのに、座って勿体ぶったお点前なんか見なきゃいけないんだ」と、一致する見解ですが。しかし、観光地の寺の縁側なんかに座って、点て出しの茶を飲むより、きちんとした茶室で頂く方が美味しいと感じるのは、点て方の巧拙ではなく、その雰囲気、どちらがより非日常的な感覚を味わえるかということでしょう。茶の湯に馴染んでいる方でも、大寄せの茶会の客になるより、茶事に招かれる方を喜ぶのは、やはりそれが、より一層非日常だからでしょう。昔、妻が、義兄を正午の茶事に招いたことがあります。茶の湯と全く関係のない義兄は、最初は面倒臭いと嫌がったのですが、参加してみると、「意外に面白いもんだな」と、初体験を喜びました。義兄が痺れを切らさないよう、低い椅子を出した上でのもてなしではありましたが。茶の湯を知っていようが、いまいが、案外茶事は面白がるものです。勿論、こんな経験は一回でいいやという人と、ハマってゆく人と分かれるでしょうが、普段、茶の湯の稽古をしているような人なら、ハマりやすい筈です。要するに、茶の湯は日常のものなのか、非日常のハレの世界のものなのか、いろいろ議論もあるようですが、やはり、日常の延長ではない、ハレの特別な世界だからこそ、面白く感動もする。「日常の世界に茶の心を」というようなスローガンを聞くことがありますが、それも勿論大切な善い事かもしれませんが、また別の話だと思います。

 「茶の湯は亭主七分の楽しみ」と昔から言いますが、お客より亭主の労力は格段に大変なのに、何故そういうのか。単純に、客をもてなすという面白さを味わえるというより、客をもてなすために創意工夫を重ねて準備する、その過程の楽しさを味わい、当日は自分が集めた花や道具を使い、自分だけが作り上げた世界を披露して、客に楽しんで貰う、その達成感が味わえる。人間、創意工夫をすることに、意外に楽しみを覚えるもので、また自分だけの世界を持つことに喜びを感じるものです。「茶会なんて、亭主が集めた茶道具を見せびらかしたいだけさ」という冷めた意見もありますが、そう悪意にとらなくともよいでしょう。創意工夫が根幹という点で、、私が疑問に思うのは、カルチュア教室とか組織で行われる茶事教室というもので、順番に亭主役、半東役、客を割り当てられて勉強すると聞きますが、教室側の用意した道具で、教室側が準備した懐石で、手順だけを指導されながらやっても、果たして本当に茶事の面白味、楽しさが解るのかどうか。私は教室に参加した経験がないので、軽々には言えませんけれど。。

 なにしろ、考えてみると、茶事は不思議なものです。素人考えだと言われれば、それまでですが。続きは次回に。

   萍亭主