終活茶事でも、このところ、よくやる続き薄茶ですが、考えてみると、このやり方は、変なものです。

 そもそも続き薄茶、つまり濃茶がすんだあとに、後炭をせずに、そのままま薄茶に移るという省略形は、何時頃、誰が始めたのか。かって、茶湯文化学会で、「続き薄」について、講演があり、その時、これについて質問したのですが、「起源はわからない」ということでした。その時の話で覚えているのは、まず、続き薄茶は、亭主から「釜の沸えもよろしいようなので続けてお薄を差し上げます」とか「時が移りましては(時間が長くかかりましては)ご迷惑かと存じますますので、続いてお薄を」とか、要するに、亭主の方から切り出すのか、「お沸えがよろしいようですから、続けてお薄を頂戴したい」とか「所用がありますので、勝手ながら続けてお薄をお願いしたい」と、客の方から乞うのか。これを、どちらからするとはっきり指導している流派もあるようです。亭主側から乞えと教える論拠は、茶事に招かれた側から、早く帰りたいふうに取れる言動は失礼だから、客からはするなということらしい。逆に客から乞うべきと教える論拠は、亭主が招いた客に早く帰れというようにとられる言動はすべきでなく、客の自由意志に任せよという論拠のようです。どちらから言えとは教えていない流派(つまり曖昧な)も勿論あります。要するに、亭主にあまり苦労をかけない、あるいは客に長時間痺れを切らさないようにという思いやりの精神からだと解釈すれば主客どちらから乞うても、あまり問題じゃないような気もしますが。そして、そもそも続き薄がありえないという流派もあります。武家流派に多いと思いますが、濃茶が終わったあと薄茶は、披きの間、あるいは鎖の間と呼ぶ別室で供するという決まりがあるからです。

 さて、千家流では、朝茶事と夜咄茶事の時は、続き薄が決まりという約束になっています。朝は、陽が高くなっては暑くてご迷惑、夜咄はあんまり夜が更けては、寝るのにご迷惑ということ、つまり目的は時間短縮ということで自然発生的に始まったものなのでしょうか。しかし、今の裏千家のやり方、どうも変な気がしてなりません。正客が茶碗を取り込んでから、次客に対し、「用がありますので、お先へどうぞ」と言って茶を勧めるわけですが、次客は、この時もう干菓子を食べている(そうしなければ茶が冷めますしね)、つまり、そうなる次第を承知の上で、行動しているのですが、予定の行動と言えばそれまでですが、なんだか、分かってるのに嘘臭い、正客に手間を取らさずに、次客が自分で取りにゆけば良いのじゃないかなどと考えてしまいます。いや、それより先に「用がありますから」と言うけれど、拝見を乞うだけの事は、茶を頂きながらでも、ちょっとしたタイミングでうまく言えてしまうように思えます。どうも次客から飲むのは、何か不自然。聞いた話ですが、ある茶事で、家元が正客だった時、続き薄になった時、次客が「お家元をさしおいて、私が先に頂くわけにはいきません」と、固辞して、結局、家元から飲んだと言うのですが、家元でなくとも正客への敬意という面から見ても正客がら飲むのが順当という感があります。そう言えば、これも聞いた話ですが、ある茶事で、家元夫婦が来て、続き薄茶の時、正客の家元が先に飲んでしまい「あ、いかんいかん」と笑いになったとか。また表千家や武者小路千家では、濃茶に使った茶碗を、そのまま薄茶碗に使うのですが、これはなんだか手抜きのような感じがします。濃茶向きの茶碗が、薄茶に向くかなあという感じも含めてです。それに武者小路千家は、次客に譲る時に、以前は「お茶碗が重なりますからお先にどうぞ」と、挨拶したそうです。次客も同じ茶碗で濃茶を飲んでいるはずですから、さっきは自分が先に飲んだから、今度はおたくが先にという意味だとしても妙な言葉です。今は「挨拶がありますので」と、裏千家と同じような挨拶をするようですが。いずれにせよ、私にとって、こういう続き薄茶のやり方というのは、何か腑に落ちないことが多いしのです。

    萍亭主