先日、終活茶事第七弾を催しました。
この齢では、いつ終わりが来るかわからないから、動けるうちに、親しい方をお招きして茶事をしておこうと、去年の晩秋から始めて、もう半年、いつまでやれるか分かりませんけれど、始めておいて良かったと思います。変な言い方かもしれませんが、「茶の湯とは、これでいいのじゃないか」という気がするようになったのです。今まで、大寄せであれ、小寄せであれ、外部でするにせよ、自宅でやるにせよ、釜を掛けるのは、「今年も一回くらいは茶会をやるか」とか、たまには外部から依頼されて一席持つとか、ともかく、まず茶会ありき、スケジュールありきで、やってきたと言えます。初釜などもそうですが、いわば年中行事の一環の感じでした。お茶事の場合でも、最初の頃の「茶事というものをやってみたい」というところから始まって、朝茶事をしてみようとか、夜咄をやってみたいとか、茶飯釜にトライしようとか、「茶事をしたい」が先で、「誰それを招きたい」という方が先だった事は、振り返ってみると、数えるほどしかありません。多勢を招く茶会もそうですが、茶事もそれなりに準備が要りますから、半年から少なくとも三月前くらいには、計画を立てたものです。ところが、終活茶会の場合、まず一ヶ月前くらいに「この日、いかがですか?」と、お声をかけてみるように変わりました。「あの人に、おめでたいことがあるそうだから、お祝いしよう」とか、「あの方とは長いおつきあいだから感謝の意を伝えておこう」とか、ふと思い立ってお招きする、お客様ありきになったわけです。何より、自分の中で「茶事をやるぞ!」というような、構えた気分がなくなったことが違います。飯後の茶事ということもあって、夫婦二人きりで準備をして、手伝ってくれる半東の方も当日午前十時くらいに来て下されば充分ですし、のんびりしたものです。やっていて楽しい事は勿論ですし、ひどく疲れるということもない。昔の茶人のように「月が綺麗だから来ないか」とか「鯉が到来したので一服差し上げたい」とかいうような、日常の中の茶の湯という領域には、とても至りませんが、爪の先くらいの自然体には近づきつつあるのかもしれません。
さて、今回は、ご近所の武者小路の先生を御正客にお招きしました。こちらのご先代は、幾夜庵と号され、お流儀の重鎮でした。先年急逝されて、その事は当ブログにも書きましたが(2021年1月12日記事)、先生のことを偲びながら、ゆっくり思い出話でもしたいと前から思っていたのが実行出来ました。ご連客も幾夜庵の先代からのご社中です。七回目ともなりますと、いい意味では大分ゆとりが出てきて、あれこれ考えていた薄茶器を、当日朝、妻と相談して変更するなど、より良くしようと間際まで頑張れるのは、大寄せ茶会などと違ういいところですが、逆に慣れすぎて、ポカをしそうになることもある。実は今回、あわやというミスが三つもありました。席入が終わった頃、気がついたら建水がない、慌てて道具部屋に取りに行く。炭手前が終り、「あれ?」。座箒が出ていない、急いで箱から引っ張り出す。中立ちになって、銅鑼を打とうとしたら、何故かいつものところに吊るしていない。どこだ、どこだという騒ぎ。幸い、どれも、お客様を変にお待たせすることもなく収まりしましたが、油断大敵です。
茶事の詳しい模様は、次回に。
萍亭主