茶道具にも困った物はあります。

 前回に書きましたが、茶の湯世界では、出生不明の物は嫌われます。これ、考えてみると、大元は、不浄の器だった物が、茶道具に見立てられて使われたりしないようにという思想から発達したのかも知れません。片桐石州の逸話でしたか、青磁だか高麗だかの良い器が、尿瓶に使われているのを見つけ、買い取って即座に叩き壊した、なまじ目のあるやつが見つけて、水指として高値に売ったりしないようにという配慮だという話です。本来の茶道具であっても、出生履歴がわからないと、お客に説明もしにくいし、使うのも何か不気味な感じがする。我が家の稽古道具の中にも、何焼かもわからないとかいう茶碗が幾つかあって、先代から伝わっているので、何も聞いておかなかったので、そこそこ時代は経っているのですが、やはり、稽古道具以外、使い用がないという困った状態にあります。

 贋物は使ってはいけないというのは、茶の湯世界の常識でしょうが、なぜ偽物を使うのがいけないか。贋物を本物と称して売買したりしたら、詐欺行為として良くないでしょうが、それで茶を飲ませるだけに使うが何が悪いかという居直った考えも出来るかも知れませんけれど、贋物を「文化財クラスです」と有り難がらせるのは、欺瞞行為で良くないでしょうし、それ以前に人間の感性として、贋物は使いたくないという意識が働くはずです。つまり、贋物と承知して使う茶人は、まず居ないはずで、起こりうるのは、本人は本物と思って使っているケースです。客も知識がない人ばかりなら、結構ですねえと平和に治りますし、目利きの客がいても、陰で「あの席主は目が利かないな」と、嗤うだけで、席中で問題が起きることはありません。困ったことに、茶道具というのは思いの外に贋物が多い。誰でも贋物を掴むのは嫌ですから、目利きに見てもらうとかして、安心感を得るわけですが、これだって人によって評価が違ったりする。箱書とか鑑定書が幅を利かすわけですが、これだって絶対とは言えない。結局、使う本人が覚悟を決めて、本物と信じて使うよりないのでしょう。贋物は勿論困った物ですが、処分して使わなければいいのですが、真贋が定まらないのは、もっと困る。我が家である品物で、私が最も困っているのは、下の軸です。

 共箱ではなく合わせて箱で、署名は「紫野牧宗」と読め、牧宗の印や「正法眼」の閑防印があります。紫野牧宗と言えば、大徳寺の二代管長で、明治の人です。この人の掛軸はひどく少なく、私は昔、横物を一つ見たことがあるだけです。表具は、全く新しく、とても明治のものなんかじゃない。「まくり」で置いてあった物を近年表装したとしても、紙の汚れがなさすぎるように思える。印の朱肉の色も時代が経ったようにも見えない。じゃあ贋物かというと、元来流通していない物を贋物を作る必要があるか?贋物は、売れ筋の人気の高い物を狙うので、全く流通していない物の偽を作るだろうか?なにしろ、本物もないので、比べようがない。目利きに見せても、「古いものとも思えないが、贋物を狙って書いているようにも思えない」と首を捻り、「こりゃ真面目なもんのように思えますよ。大徳寺の塔頭の和尚さんに牧宗って同じ名の人がいるんじゃありませんか」との意見。もしそうなら、大徳寺系の軸として使えるんですが、どう調べても、近代の塔頭の僧侶で、その名の人が見つからないのです。大徳寺に問い合わせても梨の礫。掛軸だけに茶会のみならず留守番掛けにもしにくい。贋作と破り捨てるのも躊躇するし、もやもやしたままの状態が続いています。

   萍亭主