古筆というのは、要するに、古い時代の人の筆跡ということですから、和歌のことだけではありませんが、古筆の中の多くの部分を和歌が占めているとは言えます。

 そもそも古筆って、何時の頃のものを指すのか。本来は、室町時代以前の皇族、公卿、僧侶、武家、歌人などの筆跡を指し、これらサインのない筆跡を、誰の筆か鑑定するのを古筆見と称しました。その初めは、桃山時代、公卿烏丸光廣に和歌を学んでいた平沢弥四郎という人物が、筆跡鑑定も学び、やがて、それを家業とするよう勧められて、豊臣秀次から、古筆という姓を与えられて、古筆了佐と名乗ったのが、古筆鑑定専門家の始まりと伝えます。古筆家は代々家業を受け継ぎ、昭和28年まで存続したそうです。了任の次男の系統が江戸に出て、別家を立て、幕府に仕え、古筆見という職名で、代々がつがれ、昭和初期まで活動しました。門人の鑑定家も出来、江戸中期以降になると、江戸時代前期までの筆跡や、古画、茶道具の鑑定もするように成り、別家の最後の当主古筆了任は、茶人として、近代数寄者ともよく交わっています。古筆は、内容は様々ですが、巻物や冊子、手紙や公文書などの一部、つまり断簡なので、これら全部をを「古筆切」と称するようになったわけです。そして、それぞれに伝来に応じて、何々切という名称がつけられます。前回のブログで書いた熊野懐紙や寸松庵色紙も、「切」という名はつきませんが、同じ部類ということです。有名無名取り混ぜ、その数は膨大で、それぞれ、やかましい由来が付き、筆者も含めて、私なんか、とても記憶出来るもんじゃありません。もっとも、茶の湯の世界では、古筆切が、やたらに重要視されるようになったのは、美術鑑賞の空気が強まった近代茶の湯の時代からでしょう。本阿弥光悦が愛蔵したので名前が付いた本阿弥切のように、古い時代から分割された(切られた)ものもありますが、石山切(西本願寺に伝来した三十六人集の一部)は、昭和3年に分割されて世に出たものですし、昭和切(藤原俊成筆の古今集)のように、昭和に分割されたことで名付けられたものもあります。古筆切が、茶の湯世界で市民権を得たのは、一部を除けば、明治以降でしょう。益田鈍翁が、弘法大師の書の断簡を入手して、それが大師会設立のきっかけになったのは有名な話ですが、明治以前の茶の湯の世界でなら、この断簡は、茶席には使われなかったろうと思います。古筆の内容は、和歌、連歌以外に、お経の断簡が案外多く「経切」と呼ばれて、追善の茶事などによく用いられますが、これも近代以降の事象でしょう。

  古筆の鑑定資料として、室町時代以前の二百数十人の筆跡を集め、台紙に貼り付けた手鑑は、国宝で大手鑑と呼ばれる陽明文庫やMOA美術館蔵のものを始め、古筆家で編纂されたり、刊行されたものもあって、ある程度の数はあります。ほとんど全部、巻頭には、大聖武と呼ぶ聖武天皇筆というお経の断簡を貼り、以下古い順に並べるものらしいですが、しかし江戸時代、大名などの上級武士の娘が嫁入りする際、嫁入り道具の一つとして、古筆手鑑が必需品だったそうで、そうなるとそれほどは数はありませんから、祐筆たちが模写して、コピーを作り、持たせるのが一般的だったと言います。後の時代、それが民間に流出して、さらに切られて軸装され、古筆切として流通している例もあるとか聞きますから、用心が必要かもしれません。

 私は遥か昔、まだ何もわからないころ、関戸本和漢朗詠集切(だったと思います)が掛かった席に入った記憶と、十年ほど前でしょうか、石山切が掛かっているから、是非それだけでも拝見するようにと、知人に勧められ、水屋から入れてもらって、床だけ拝見したことがあります。私の素養のなさから、どれだけ、その価値を感じられたか、まことに危ないものです。

   萍亭主