掛軸の話を再び始めますが、字の軸で、墨跡、一行物など、禅語関係の話は、大雑把には済んだかと思うので、それ以外の分野を見てみたいとます。
禅語の次に、茶席で用いられているのは、和歌でしょう。連歌、漢詩、俳句、狂歌、狂句など、要するに韻文学の作品は、本来、茶席では、なんでも使えるはずですが、現実は圧倒的に和歌です。書かれた紙の形式で、懐紙、詠草、色紙、短冊などに分かれ、別格なものに古筆切と呼ばれるものがあるわけですが、古筆切は、いずれまた整理するとして、とりあえず、茶席の和歌の世界を覗いてみましょう。
和歌は、季節感たっぷりなもので、季節感を大切にしたがる今の茶の湯では、禅語よりも遙かに季節感は表現しやすいわけで、もっと使われてもいいだろうと思えるのですが、実際は、禅語に比べれば、シェアは圧倒的に少ない。何故なのかというと、シンプルに、書く人が少ないからです。どういうことかというと、和歌は基本、自分で詠んだものなので、禅語のように、古典的な文言を書くわけじゃないから、和尚さんであれ、家元であれ、和歌の心得がなければ出来ない。沢庵だの大綱だの、和歌が好きだった坊さんや茶人もいないではありませんが、まあ少ないわけです。そして、短歌と呼ばれるようになった近現代の和歌は、どうも茶の湯の世界では用いられない。雰囲気が茶の湯に合わないという先入観もあるのかもしれません。そう言えば、昔から、恋の歌は茶席には掛けないという不文律があったそうです。古歌(例えば百人一首の和歌とか)を書家に書いて貰えばいいじゃないかという声が起きそうですが、前にこのブログにも書いたように、茶席の軸は、書き手が問題なので、家元とか茶の湯世界の偉い人でなければ困るわけです。先頃、「なごみ」誌上で、平家物語の薩摩守忠度を主題にした茶会で、寄付きに、小林逸翁が「さざなみや志賀の都はあれにしを」と忠度の和歌を書いた軸が使われていましたが、あれが逸翁の書いたものだからこそ、よくぴったりのものがあったものだと感心しますが、現代の書家か何かに書かせていたら、無理矢理趣向にしようとしていると興醒めだったかと思います。話を戻して、そういうわけで、明治以前の、和歌を詠むのが習慣づけられていたお公卿さんたちの和歌、それも多くは江戸時代の近衛信尹とか烏丸光廣とか中院通茂とかの和歌が、普通の茶会では見られるようで、要するに絶対数が少ないのです。古筆切などになると、貴重ですから、なかなか普通の茶会になど出てきません。
そもそも、和歌の軸を茶席に掛けるようになった最初はいつなのか。ある学者先生に尋ねてみたら、今井宗久が定家の色紙を使ったのが古い記録だろうと言われました。そういえば豊臣秀次が催した暁の茶会で、暗い床に月の光が差し込んだら「時鳥啼きつる方を眺むればただ有明の月ぞ残れる」の和歌の軸が浮かび上がり、「名誉不思議の御作意かな」と、客が感嘆したという話がありましたから、桃山時代から用いられはしたのでしょう。たしか利休も、豊臣秀吉の下手な和歌を掛けた記録があったかと思います。しかし、一般化したのは、公卿社会に茶の湯が広がり、和歌が身近で、古いものも手にも入れやすい世界で、抵抗なく使われた、そして、それが徐々に一般に広がっていったんだろうと、私は勝手に考えています。
萍亭主